小池安之
小池 安之(こいけ やすゆき、1864年4月26日(元治元年3月21日[1][2]) - 1931年(昭和6年)10月11日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。位階および勲等、軍功は正三位・勲二等・功三級。
経歴
[編集]茨城県出身[1][2][3]。平民小池安左衛門の二男として生れる[1]。陸軍教導団を経て、1886年(明治19年)6月、陸軍士官学校(旧8期)を卒業し、歩兵少尉に任官、歩兵第24連隊付となる[1]。1893年(明治26年)11月、陸軍大学校(9期)を卒業した[1][3]。
1896年(明治29年)5月、参謀本部第3部員、参謀本部員、マニラ出張などを経て、1900年(明治33年)10月、歩兵少佐に進級し第9師団参謀に就任[1]。1902年(明治35年)4月、参謀本部員(第2部)となり、欧州差遣、大本営参謀などを歴任し、1904年(明治37年)6月、満州軍参謀(情報)に発令され日露戦争に出征[1][2][3]。同年9月、歩兵中佐に進級[1]。
1905年(明治38年)9月、歩兵第28連隊長となり、参謀本部員に転じ、1907年(明治40年)11月、歩兵大佐に昇進[1][3]。1908年(明治41年)4月、第7師団参謀長に発令され、1911年(明治44年)9月、陸軍少将に進級し歩兵第12旅団長に就任[1][2][3]。独立守備隊司令官、近衛歩兵第2旅団長、憲兵司令官を歴任[1][2][3]。1916年(大正5年)5月、陸軍中将に進み、1918年(大正7年)6月、第6師団長に親補された[1][2][3]。1921年(大正10年)6月、予備役に編入された[1][2][3]。昭和6年10月11日薨去。享年68。墓所は青山霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)11月27日 - 正八位[4]
- 1891年(明治24年)12月28日 - 従七位[5]
- 1895年(明治28年)3月28日 - 正七位[6]
- 1900年(明治33年)4月30日 - 従六位[7]
- 1904年(明治37年)11月1日 - 正六位[8]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 従五位[9]
- 1911年(明治44年)10月20日 - 正五位[10]
- 1916年(大正5年)6月10日 - 従四位[11]
- 1918年(大正7年)6月29日 - 正四位[12]
- 1921年(大正10年)
- 勲章等
- 1895年(明治28年)10月19日 - 勲六等瑞宝章・功五級金鵄勲章[15]
- 1901年(明治34年)11月30日 - 勲五等瑞宝章[16]
- 1915年(大正4年)2月26日 - 勲二等瑞宝章[17]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[18]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸海軍総合事典』第2版、62頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』293頁。
- ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』75頁。
- ^ 『官報』第1034号「叙任」1886年12月9日。
- ^ 『官報』第2551号「叙任及辞令」1892年1月4日。
- ^ 『官報』第3521号「叙任及辞令」1895年3月29日。
- ^ 『官報』第5046号「叙任及辞令」1900年5月1日。
- ^ 『官報』第6417号「叙任及辞令」1904年11月18日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第8502号「叙任及辞令」1911年10月21日。
- ^ 『官報』第1158号「叙任及辞令」1916年6月12日。
- ^ 『官報』第1773号「叙任及辞令」1918年7月1日。
- ^ 『官報』第2673号「叙任及辞令」1921年6月29日。
- ^ 『官報』第2684号「叙任及辞令」1921年7月12日。
- ^ 『官報』第3694号「叙任及辞令」1895年10月21日。
- ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
- ^ 『官報』第770号「敍任及辞令」1915年2月27日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。