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小泉善一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小泉 善一郎
こいずみ ぜんいちろう
生年月日 1892年10月11日
出生地 栃木県安蘇郡佐野町(現佐野市
没年月日 (1977-05-15) 1977年5月15日(84歳没)
死没地 栃木県佐野市
称号 従六位勲五等瑞宝章[1]

(旧)佐野市長
当選回数 2回
在任期間 1943年6月29日[1] - 1946年11月25日[1]
1955年5月1日[2] - 1959年4月30日[2]

当選回数 1回
在任期間 1942年9月9日[3] - 1943年3月31日[3]
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小泉 善一郎(こいずみ ぜんいちろう、1892年明治25年)10月11日[1] - 1977年昭和52年)5月15日)は、日本政治家栃木県(旧)佐野市長を務めた。

経歴

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安蘇郡佐野町に生まれる[4]。実家は織物業を営んでおり十代で家業を継ぐ[4]1929年昭和4年)、佐野町議会議員に就任し以後14年間務める[1]。また、1935年(昭和10年)9月から1939年(昭和14年)9月まで安蘇郡選出の県会議員を務めている[4][5]。この他に、佐野織物工業組合理事長や日本綿織物工業組合連合会監事なども歴任している[4]

1942年(昭和17年)、佐野町長に就任[4]。当時の佐野町は周辺の自治体との合併による市制施行を検討しており、小泉はその実現に向けて主導的役割を果たした[1]

1943年(昭和18年)4月1日、(旧)佐野市が発足。市制施行後初の市議会議員選挙に際し、市長代理の地位にあった小泉は立候補者の乱立を防ごうと奔走している[6]。市内各地区はそれぞれ立候補者を推薦し無競争での当選を図った[7]。しかし、小泉らの思惑に反し、立候補届け出締め切りまでに定数30に対して41名が立候補し激戦となってしまう[8]

市議会議員選挙を経て、同年6月の臨時会で小泉は全会一致で市長に推薦される[9]。同月29日、市長に就任した。1944年(昭和19年)7月には消防本部を竣工している[1]

終戦後の1946年(昭和21年)には公職追放の対象となり市長の職を追われた[4][10]。しかし、1955年(昭和30年)5月には再び市長に就任し1959年(昭和34年)4月まで務めた[2]1956年(昭和31年)にはごみ焼却場と堀米橋を完成させ、1957年(昭和32年)には農業委員会の統合や出張所の廃止を行った[2]

1977年(昭和52年)5月15日午後4時20分、脳出血により佐野市内の病院で死去した[11]。84歳没。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『日本の歴代市長 第一巻』594頁。
  2. ^ a b c d 『日本の歴代市長 第一巻』595頁。
  3. ^ a b 『栃木県町村合併誌 第三巻下』89-90頁。
  4. ^ a b c d e f 『栃木県歴史人物事典』250頁。
  5. ^ 『栃木県史 通史編6 近現代1』1041頁。
  6. ^ 『佐野市史 通史編 下巻』1079頁。
  7. ^ 『佐野市史 通史編 下巻』1080-1081頁。
  8. ^ 『佐野市史 通史編 下巻』1081頁。
  9. ^ 『佐野市史 通史編 下巻』1083頁。
  10. ^ 『佐野市史 通史編 下巻』1095頁。
  11. ^ “小泉善一郎氏(元佐野市長)”. 下野新聞: p. 3. (1977年5月16日) 

参考文献

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  • 『栃木県町村合併誌 第三巻下』栃木県、1956年。
  • 『佐野市史 通史編 下巻』佐野市、1979年。
  • 『栃木県史 通史編6 近現代1』栃木県、1982年。
  • 『日本の歴代市長 第一巻』歴代知事編纂会、1983年。
  • 『栃木県歴史人物事典』下野新聞社、1995年。


先代
山田元吉
佐野町長
第19代:1942年 - 1943年
次代
(旧)佐野市の発足に伴い廃止
先代
-
伊藤弘憲
(旧)佐野市長
第1代:1943年 - 1946年
第4代:1955年 - 1959年
次代
伊藤弘憲
鈴木達三