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小泉由兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小泉 由兵衛(こいずみ よしべえ、生没年不明)は、日本とび職人請負師神奈川県平民[1]

小泉又次郎の父。小泉芳江小泉純也の妻)の祖父。小泉純一郎の曾祖父。小泉孝太郎小泉進次郎の高祖父。

経歴

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武蔵国久良岐郡六浦荘村(現在の神奈川県横浜市金沢区)の代々のとび職だったが、のちに横須賀に進出して、海軍労働者を送り込む軍港随一の請負師[注釈 1]になった[2]

1884年明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争(1894~1895年)から日露戦争(1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織[注釈 2]が生まれていった[3]。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった[3]。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく[3]。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨(きすう)を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった[3]

又次郎は家業を嫌って家出をした。由兵衛は連戻された又次郎を怒鳴りつけて、「此(こ)の寧馨児(ねいけいじ)、よくも出奔(しゅっぽん)する。お前は長男だから何としても家を相続せねばならないのだ。今日限り魂を入れ替えて家業を継げ!」と厳命した[4]

1887年(明治20年)、又次郎は立憲改進党に入党した。由兵衛は「こうなっては仕方がないが、とうとうせがれ一人を台無しにした」と嘆(なげ)いたという[5]。当時の又次郎は特に立憲改進党へのこだわりはなくシンパというわけでもなかった。たまたま由兵衛と親しかった戸井嘉作の誘いを受けての入党だった[6]

家族

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小泉家

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神奈川県久良岐郡六浦荘村(現横浜市金沢区)、横須賀市

脚注

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注釈

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  1. ^ 沖仲仕を父に持つ作家火野葦平の著書『青春の岐路』には「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒とバクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」とある。
  2. ^ 猪野健治著『侠客の条件 吉田磯吉伝』170-171頁によると「やくざ組織の構成層は、いつの時代においても社会から疎外された被差別階層であった。その構成層は、封建時代にあっては、下級武士浪人、人足、農民職人等であり、明治以降、昭和にかけては、没落士族、中小鉱山港湾土木建築関係者、土方、農漁民、職人等の一部であった。彼らこそ失うべき名誉も地位も財産もなにものももたない階級の所属者であった。彼らがときに発揮する反権力性は、実は彼らの階級性の気まぐれな表現であり、民衆が彼らに期待する任侠道とは、階級意識の原始的顕現にほかならない。」という。

出典

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  1. ^ a b c d 『人事興信録. 4版』(大正4年)こ二
  2. ^ 梅田功 2001, p. 28.
  3. ^ a b c d 宮崎学 2008, pp. 54–55.
  4. ^ 梅田功 2001, p. 32.
  5. ^ 梅田功 2001, p. 35.
  6. ^ 梅田功 2001, pp. 38–39.
  7. ^ a b 『人事興信録. 9版』(昭和6年)コ四
  8. ^ 佐野眞一 『小泉政権 ― 非情の歳月』157-158頁

参考文献

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  • 梅田功『変革者:小泉家の3人の男たち』角川書店、2001年。 
  • 『小泉純一郎と日本の病理』(藤原肇 著、光文社、2005年)
  • 宮崎学ヤクザと日本:近代の無頼』筑摩書房、2008年。 

関連項目

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