小田喜代蔵
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小田 喜代蔵(おだ きよぞう、文久3年6月15日(1863年7月30日) - 明治45年(1912年)4月25日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍少将。機雷の「小田式自働繋維器」考案者。日露戦争時には「蛟龍丸」を指揮して旅順港口へ機雷を敷設。
経歴
[編集]唐津藩士・小田周助の二男として生まれる。攻玉社を経て、明治17年(1884年)12月、海軍兵学校(11期生)を卒業し、1886年9月、海軍少尉任官。水雷術練習所教官、横須賀水雷隊攻撃部艇長などを経て、日清戦争に常備艦隊附属水雷艇長として出征、「西京丸」分隊長となった。以後、軍令部出仕、同第1局員、兼参謀本部員、イギリス駐在、軍令部出仕、同第1局員、軍令部参謀などを歴任。
日露戦争には連合艦隊附属敷設隊司令として出征し、第七次旅順口攻撃において「蛟龍丸」を乗船指揮して機雷敷設を成功させ、作戦成功の功労者として報道される。戦争後半の明治38年(1905年)1月、海軍大佐に進級し艦隊附属防備隊司令となった。その後、呉鎮守府付、大湊要港部参謀長、竹敷要港部参謀長、軍令部出仕、兼海軍大学校教官、海軍下瀬火薬製造所長などを歴任し、呉工廠水雷部長に就任。明治44年(1911年)4月、海軍少将となった。翌年4月に急逝肺炎により現職で死去した[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 勲六等瑞宝章・功五級金鵄勲章[4]
- 1898年(明治31年)12月28日 - 勲五等双光旭日章[5]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、勲三等旭日中綬章、明治三十七八年従軍記章[6]
- 1912年(明治45年)4月25日 - 勲二等旭日重光章[3]
親族
[編集]- 娘 原ノブ 原清(海軍中将)の妻
脚注
[編集]- ^ 東京朝日新聞明治45年4月27日 『新聞集成明治編年史. 第十四卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
- ^ a b 『官報』第8654号「叙任及辞令」1912年4月27日。
- ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」明治28年11月29日。
- ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
- ^ 『官報』7005号・付録「叙任及辞令」1906年11月2日。