小田彦太郎
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小田 彦太郎(おだ ひこたろう、1888年(明治21年)1月29日[1][2] - 1952年(昭和27年)5月14日[3])は、大正から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、延岡市会議長、宮崎県東臼杵郡延岡町長。
経歴
[編集]宮崎県[3]東臼杵郡延岡城下北町(延岡町を経て現延岡市[4][5])で生まれる。1910年(明治43年)東京帝国大学農科大学林学実科を卒業した[3][注釈 1]。
帰郷して回漕業を営む[2][6]。延岡商工会議所会頭、商事調停委員、延岡瓦斯取締役、高千穂運輸取締役、宮崎県木材取締役、延岡バス監査役、宮崎県瓦斯用木炭取締役社長などを務めた[2][3][4][6]。
政界では、延岡町会議員、延岡町長、延岡市会議員、同議長、同参事会員、宮崎県会議員、同副議長などに在任した[2][3][4][6]。
1942年(昭和17年)4月の第21回衆議院議員総選挙で宮崎県全県区から翼賛政治体制協議会の推薦を受け出馬して当選[2][4][5][7]。大政翼賛会宮崎県支部常務理事、翼賛政治会政調商工委員、農林兼務委員などを務めた[3][4][6]。戦後、日本進歩党に所属し[3]、衆議院議員に1期在任[3][4][5]。その後、公職追放となった[8]。
国政選挙歴
[編集]- 第19回衆議院議員総選挙(宮崎県全県区、1936年2月、中立)落選[9]
- 第20回衆議院議員総選挙(宮崎県全県区、1937年4月、中立)落選[10]
- 第21回衆議院議員総選挙(宮崎県全県区、1942年4月、推薦)当選[7]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』宮崎2頁、『人事興信録 第14版 上』オ29頁では東京農大卒。
出典
[編集]- ^ 衆議院『第八十回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1942年、31頁。
- ^ a b c d e 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』宮崎2頁。
- ^ a b c d e f g h 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』112頁。
- ^ a b c d e f 『翼賛議員銘鑑』68頁。
- ^ a b c 『宮崎県政外史』634頁。
- ^ a b c d 『人事興信録 第14版 上』オ29頁。
- ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』577頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、一般該当者名簿457頁。公職追放の該当事項は「推薦議員」。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第19回』593頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第20回』581頁。
参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第19回』衆議院事務局、1936年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第20回』衆議院事務局、1937年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
- 『翼賛議員銘鑑』議会新聞社、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 宮崎県政外史編纂委員会編『宮崎県政外史』宮崎県政外史刊行会、1967年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。