小田柿捨次郎
小田柿 捨次郎(おだがき すてじろう、慶応元年11月6日(1865年12月23日) - 昭和3年(1928年)3月5日)は、日本の実業家。三井物産で大正海上火災保険の設立にあたった。
来歴・人物
[編集]近江国彦根藩出身[1][2]。3歳のとき父が死去したため、遠縁の相馬永胤のもとに寄宿し[3]、1891年高等商業学校(現・一橋大学)卒業[1][4]。同年三井物産に入社し[4]、上海支店詰となった[2]。
サンフランシスコ出張員を務めていた1900年には、親友の正田貞一郎の依頼を受け製粉機械の輸入を行い、館林製粉の設立に協力した[5][1][6][2]。
三井物産シンガポール支店詰、三池炭鉱詰、口ノ津支店支配人等を経て[2]、1908年参事長[1]。1909年営業部長[2]。1911年木材部長兼小樽支店長。1913年上海支店長[2]。
1914年から新設の常務取締役を務め[7]、損害保険会社設立計画の中心となり原錦吾に調査研究を委嘱[8]。1917年には自宅で損害保険会社設立懇談会を開催し、飯田義一、馬越恭平、岩原謙三、南条金雄、田中文蔵、平生釟三郎、磯村豊太郎らが集まり、1918年には大正海上火災保険が設立された[9]。
1920年に専修大学に相馬永胤先生像を寄贈[10]。また、沼地だった鵠沼松が岡で3000坪の土地の開発を行い別荘を建設。鵠沼海岸別荘地開發記念碑に名が残る[11]。しかし、病気で倒れ[12]、1922年に三井物産取締役を退任し[2]、三井合名参与、三井物産嘱託となった[2]。その後、失明し、1928年に死去した[2]。
親族
[編集]妻のきぬは東京海上保険創立者の益田克徳の長女。三井物産初代社長の益田孝は義兄[4]。養子の勝子は坂本彌三郎神戸大学名誉教授の妻[13]。
歌集
[編集]- 佐佐木信綱編『樟蔭歌集』小田柿健一 1928年
栄典
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d 小田柿 捨次郎(読み)オダガキ ステジロウ日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」 デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ a b c d e f g h i j k 財界物故傑物伝 上巻
- ^ 財界の実力
- ^ a b c 小田柿捨次郞日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
- ^ MUSE Vol 42鈴木商店記念館
- ^ 製粉界の覇者日清製粉と社長正田貞一郎氏
- ^ 三井物産(株)『挑戦と創造 : 三井物産一〇〇年のあゆみ』(1976.07)
- ^ 岡崎哲二「経営者,社外取締役と大株主は本当は何をしていたか?―東京海上・大正海上の企業統治と三菱・三井―」三菱史料館論集/2012 巻 (2012) 13 号
- ^ 大正海上火災保険(株)『大正海上火災保険株式会社四十年史』(1961.05)
- ^ キャンパス探訪 〈4〉 建学の心を訪ねて 「相馬永胤先生像」ニュース専修ウェブ版2002年10月号
- ^ 湘南の海を守り抜く湘南ビジョン研究所
- ^ 麻島昭一「三井物産の社内保険の実態 : 明治・大正期の物産元帳よりの考察」専修大学社会科学研究所月報 巻 526, p. 1-40, 発行日 2007-04-20
- ^ 人事興信録 第14版 上