小田桐忠治
表示
小田桐 忠治(おだぎり ただはる、1882年〈明治15年〉7月21日[1] - 1946年〈昭和21年〉3月[2])は、明治から昭和時代の実業家。
経歴
[編集]小田桐繁太郎の長男として北海道に生まれ、1907年(明治40年)分家する[1][3][4][5][6][7][8]。函館商業学校を卒業し、1918年(大正7年)樺太汽船を設立する[9]。
同社常務取締役、日本採炭窯業取締役、東京湾汽船取締役・社長、犬上商船取締役、日産汽船専務取締役・同社社長、大島観光事業代表などを歴任した[1][3][4][5][6][7][8]。墓所は多磨霊園。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年。
- 人事興信所編『人事興信録』第9版、人事興信所、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録』第10版 上、人事興信所、1934年。
- 人事興信所編『人事興信録』第11版 上、人事興信所、1937年。
- 生田盛『戦時下の人的資源 財界篇 第1巻』現実社、1939年 。
- 人事興信所編『人事興信録』第12版 上、人事興信所、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録』第13版 上、人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録』第14版 上、人事興信所、1943年。
- 『日正汽船50年の歩み』日正汽船株式会社、1993年。