小田治久
小田 治久(おだ はるひさ、1300年2月3日(正安2年1月12日) - 1353年1月22日(正平7年/文和元年12月17日[1])は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。小田氏の第8代当主。官位は宮内権少輔[2]。尾張権守[2]。常陸介[2]。初名は小田高知[3](おだ たかとも[4])。子に小田孝朝がいる[5]。
生涯
[編集]常陸にて[4]第7代当主・小田貞宗[6](さだむね)の子(『尊卑分脈』)として生まれる。
生没年については、1283年2月10日(弘安6年1月12日) - 1353年1月16日(正平7年/文和元年12月11日)と伝わる[2][4][7][8]が、父の貞宗は建武2年(1335年)に53歳で死去した(=1283年生まれ)とされ[9][10]、矛盾する。故に貞宗と治久を兄弟とする説もある[9]が、正安2年(1300年)生まれとする説があり[1]、初名の高知が北条氏得宗家当主・鎌倉幕府第14代執権の北条高時より偏諱を受けたものとされる[11]ことからも後者が正しいと判断される(父の貞宗は得宗・鎌倉幕府第9代執権の北条貞時(高時の父)より偏諱を受けたとされ[12]、1283年生まれで問題ないとみられる)。
嘉暦2年(1327年)、父の代理として陸奥の安藤氏の乱鎮圧で功を挙げ、翌年鎌倉に帰還した[2](『鎌倉年代記』裏書)。元弘元年(1331年)の元弘の乱では鎌倉幕府軍に従ったが、同幕府が滅亡するとその罪を問われることを恐れて、幕命で常陸国に流罪とされていた万里小路藤房を助けて上洛し、後醍醐天皇に仕え[2]、その諱「尊治」の一字を受けて治久に改名したとされる[3]。のちに足利尊氏が後醍醐天皇の建武政権から離反すると南朝側に与し[2]、延元元年/建武3年(1336年)には常陸瓜連城などに拠って楠木正家と共に、常陸の佐竹氏などの北朝勢力と戦った[2][9]。その後延元3年/暦応元年[9][7]に北畠親房を小田城に迎えた[13]ため、尊氏の命を受けた高師冬の攻撃を受け、興国2年/暦応4年(1341年)には北朝に降伏することを余儀なくされた[2][7]。以後は北朝方に属して戦い[2][9][4][7]、師冬に従って関・大宝両城の攻略にあたった[2](関城・大宝城の戦い)。正平7年/文和元年(1352年)12月17日、死去。後を子の孝朝が継いだ[2]。法号は妙光院索准覚翁[2]。
脚注
[編集]- ^ a b 小丸俊雄『小田氏十五代 豪族四百年の興亡』上巻(崙書房、1979年)p.51
- ^ a b c d e f g h i j k l m 安田 1990, p. 111, 田代脩 「小田孝朝」、「小田治久」
- ^ a b 『大日本史料』6-17 P.294(典拠は『常陸誌料』五 小田氏譜上)に「治久、初名高知、後醍醐天皇賜偏諱、因更治久、……(中略)……自延元元年至興國二年、……賜御諱…(以下略)」とある。同様の改名の事例として足利尊氏(初名高氏)が挙げられる。
- ^ a b c d 「小田治久」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。
- ^ 『鑁阿寺新田・足利両氏系図』によると、常陸小田城主・小田真知の娘が新田義貞の正室となって新田義宗を生んだとしているが、義貞や義宗の活動した時期の同城城主は治久であり、小田氏の系図にその名前自体が見られないことから、特に誤りがなければ真知は治久のことを指している可能性がある。
- ^ 武家家伝_小田氏の系図では「小田貞朝(別表記:小田貞知)」となっている。
- ^ a b c d 網野善彦「小田治久」『世界大百科事典 第2版』 。
- ^ 『佐竹古文書』には「小田代々城主之事、治久源朝臣、文和元壬辰年十二月十一日、御年七拾歳(70歳)御逝去、」とあり、『系図纂要』にも同様の記載がある。ただし「浅羽本 牛久系図」では享年を78とする(この場合1275年生まれとなる)。『大日本史料』6-17 pp.293-294に拠る。
- ^ a b c d e 山田邦明「小田治久」『朝日日本歴史人物事典』 。
- ^ 小丸俊雄『小田氏十五代 豪族四百年の興亡』上巻(崙書房、1979年)p.49
- ^ 紺戸 1979, p.15系図。高時は延慶2年(1309年)に元服し、応長元年(1311年)に父・貞時の死去に伴い得宗家の家督を継承しており、治久(高知)の元服はこれ以後ということになる。
- ^ 紺戸 1979, p. 15.
- ^ この時に親房は『神皇正統記』や『職源鈔』を執筆したとされている(近年の関連文献に、『神皇正統記』(岩佐正校注、岩波文庫、重版多数)、加地宏江『中世歴史叙述の展開 「職原鈔」と後期軍記』(吉川弘文館、1999年)、『和歌職原鈔』(今西祐一郎校注、平凡社東洋文庫、2007年)がある)。