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小笠原長澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小笠原 長澄(おがさわら ながずみ、生没年不詳)は、鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府御家人小笠原長清の子。別名は長隆。通称は「余一」。「大倉」を号す。

人物

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吾妻鏡』によれば、寛元4年(1246年)に笠懸の射手[1]、同5年(1247年)犬追物上手の射手[2]宝治元年(1247年)遠笠懸の射手[3]、同2年鶴岡八幡宮放生会の随兵[4]建長2年(1250年)3月の将軍藤原頼嗣方違えに供奉した際の射的の射手[5]、同年8月と翌年8月に犬追物上手の射手[6]、同4年(1252年)4月の宗尊親王将軍の鎌倉入りと鶴岡八幡宮での随兵を務めた[7]

脚注

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  1. ^ 『吾妻鏡』寛元4年10月16日条
  2. ^ 『吾妻鏡』寛元5年1月23日条
  3. ^ 『吾妻鏡』宝治元年12月10日条
  4. ^ 『吾妻鏡』宝治2年8月15日条
  5. ^ 『吾妻鏡』建長2年3月25日条
  6. ^ 『吾妻鏡』建長2年8月18日条、建長3年8月21日条
  7. ^ 『吾妻鏡』建長4年4月1日条、4月14日条

参照

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