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小藤文次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小藤 文次郎
生誕 1856年4月8日
日本の旗 日本 石見国津和野
(現・島根県鹿足郡津和野町
死没 (1935-03-08) 1935年3月8日(78歳没)
研究分野 地質学岩石学鉱物学火山学地震学
研究機関 東京帝国大学
出身校 東京帝国大学
プロジェクト:人物伝
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小藤 文次郎(ことう ぶんじろう、安政3年3月4日1856年4月8日〕 - 昭和10年〔1935年3月8日)は、日本地球科学者地質学岩石学鉱物学火山学地震学など、幅広く活躍した。ドイツ地理学を日本に導入し[1]日本の地質学や地形学の揺籃期に活躍・貢献をした[2][3]。また、多くの学生を育てた[4]

経歴

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石見国(現在の島根県津和野生まれ。藩校の養老館で漢学や蘭学を学ぶ。1870年、15歳の時、藩から大学南校(のちの開成学校、東京大学)に貢進生として上京し、英語、理学を修め卒業する。1877年(明治10年)、創立されたばかりの東京大学理学部地質学および採鉱学科に進学し、1879年(明治12年)東京帝国大学理学部地質学および採鉱学科の最初の卒業生。ナウマンなどに学んだ。[5]。 1880年、ドイツに留学し、ライプツィヒ大学ミュンヘン大学への留学後、1884年、29歳の時帰国し、東京帝国大学理学部地質学科講師に就任した。ドイツ留学中の1883年(明治16年)東京大学地質学科と地質調査所の関係者によって地学会(のちに東京地学協会と合併し、今日に至る)が結成され、『地学会誌』が1885年に創刊される。

1891年濃尾地震の際には、発生から約2週間後に現地入りして調査を行い[6]、後にその結果から断層地震説を発表した。調査の際に撮影された根尾谷断層の写真は、1893年に小藤が発表した論文[7]に掲載され、活断層の様子を生々しく記録した写真として世界に広まった[8]。この写真の撮影者については、小川一真瀬古安太郎日下部金兵衛と複数の説が存在する[9]

初めて日本人の名前がつけられた鉱物として、小藤にちなんだ小藤石 (kotoite, Mg3(BO3)2) が渡辺武男によって1939年に発表された[10]。墓所は多磨霊園(14-1-9)。

栄典・授章・授賞

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位階
勲章等

親族

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論文

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  • 小藤文次郎「硫黄鑛床の成因」『地質学雑誌』第24巻第291号、日本地質学会、1917年、591-596頁、doi:10.5575/geosoc.24.291_591ISSN 0016-7630NAID 110003014664 
  • 小藤文次郎「朝鮮北部の地勢」『地學雜誌』第14巻第7号、東京地学協会、1902年、467-478頁、doi:10.5026/jgeography.14.467ISSN 0022-135XNAID 130000974180 
  • 小藤文次郎「藝豫地震の震源地」『地質学雑誌』第13巻第151号、日本地質学会、1906年、117-12頁、doi:10.5575/geosoc.13.151_117ISSN 0016-7630NAID 110003014102 
  • 小藤文次郎「地質學上ノ見地ニ依ル江濃地震」『震災豫防調査會報告』第69号、震災豫防調査會、1910年10月、1-15頁、NAID 110006605118 
  • 小藤文次郎「アルカリ岩の成因」『地質学雑誌』第25巻第294号、日本地質学会、1918年、142-144頁、doi:10.5575/geosoc.25.142ISSN 0016-7630NAID 110003014673 
  • 小藤文次郎「中井博士欝陵島植物調査」『地質学雑誌』第27巻第316号、日本地質学会、1920年、18-20頁、doi:10.5575/geosoc.27.18ISSN 0016-7630NAID 110003011055 
  • 小藤文次郎「今後は船舶に石油燃料時代なり」『地質学雑誌』第27巻第320号、日本地質学会、1920年、213-217頁、doi:10.5575/geosoc.27.213ISSN 0016-7630NAID 110003014704 
  • 小藤文次郎「岩槻地震帯に就いて (摘要)」『地質學雜誌』第36巻第429号、日本地質学会、1929年6月、250-253頁、ISSN 00167630NAID 110003010642 
  • 小藤文次郎「地學雑誌の由來」『地學雜誌』第42巻第10号、東京地学協会、1930年、562-563頁、doi:10.5026/jgeography.42.562ISSN 0022-135XNAID 130000986111 
  • 小藤文次郎「琉球弧嶋の地質搆造」『地質学雑誌』第5巻第49号、日本地質学会、1897年、1-12頁、doi:10.5575/geosoc.5.1ISSN 0016-7630NAID 110003016674 

脚注

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  1. ^ 由村百代「小藤文次郎によるドイツ地理学の導入:「地学雑誌発行ニ付地理学ノ意義ニ解釈ヲ下ス」とその原典」『地理学評論』第51巻第5号、日本地理学会、1978年、406-415頁、doi:10.4157/grj.51.406ISSN 0016-7444NAID 130003567782 
  2. ^ 小藤文次郎「琉球弧嶋の地質搆造」『地質学雑誌』第5巻第49号、日本地質学会、1897年、1-12頁、doi:10.5575/geosoc.5.1ISSN 0016-7630NAID 110003016674 
  3. ^ 矢島道子「小藤文次郎 : 日本の地質学・岩石学の父(地学者列伝)」『地球科学』第61巻第2号、地学団体研究会、2007年、155-159頁、doi:10.15080/agcjchikyukagaku.61.2_155ISSN 0366-6611NAID 110006242189 
  4. ^ 米倉伸之「日本の地形研究史」/ 米倉伸之・貝塚爽平・野上道男・鎮西清高編著『日本の地形1 総説』東京大学出版会 2001年 33ページ
  5. ^ 岡田俊裕著 『日本地理学人物事典 [近代編 1 ]』 原書房 2011年 71ページ
  6. ^ 松田時彦「濃尾地震が大地に遺したもの : 地震断層と小藤文次郎の断層原因論,その後」『地震ジャーナル』第51号、地震予知総合研究振興会、2011年6月、22-28頁、ISSN 0912-5779NAID 40019152870 
  7. ^ KOTO B.「On the cause of the Great earthquake in central Japan, 1891.」『J. Sci. Coll. Imp. Univ.(帝國大學紀要. 理科)』第5巻、College of Science, Imperial University、1893年、295-353頁、doi:10.15083/00037587NAID 10007193278 
  8. ^ 岡田篤正「濃尾地震断層系根尾谷断層」『活断層研究』第1987巻第4号、日本活断層学会、1987年、71-90頁、doi:10.11462/afr1985.1987.4_71ISSN 0918-1024NAID 130003355453 
  9. ^ 榎本祐嗣「小藤論文の濃尾地震根尾谷断層写真について」(PDF)『歴史地震』第21号、歴史地震研究会、2006年、219-222頁、2021年7月18日閲覧 
  10. ^ 渡邊武男「小藤石(Kotoite)に就て」『地質學雜誌』第48巻第573号、日本地質学会、1941年6月、283頁、ISSN 00167630NAID 110003016549 
  11. ^ 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。
  12. ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
  13. ^ 『官報』第5312号「叙任及辞令」1901年3月22日。
  14. ^ 『官報』第8398号「叙任及辞令」1911年6月21日。
  15. ^ 『官報』第2391号「叙任及辞令」1920年7月21日。
  16. ^ 『官報』第4051号「叙任及辞令」1896年12月28日。
  17. ^ 『官報』第5243号「叙任及辞令」1900年12月21日。
  18. ^ 『官報』第8105号「叙任及辞令」1910年6月29日。
  19. ^ 中野文庫 - 旧・勲一等瑞宝章受章者一覧(戦前の部)
  20. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年、58頁。人事興信所編『人事興信録』第10版 上、1934年、コ61頁。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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