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小角彌三次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
こすみ やさんじ

小角 彌三次
生誕 1868年8月(明治元年8月)
徳島県撫養町
(現在の徳島県鳴門市
死没 1935年(昭和10年)
国籍 日本の旗 日本
別名 小角弥三次
職業 柔術家
流派 天神真楊流
肩書き 大日本武徳会柔道範士
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小角 彌三次(1868年(明治元年)8月 - 1935年(昭和10年))は、日本柔術家である。小角弥三次とも書かれる。

経歴

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明治元年に阿波国撫養町(現在の徳島県鳴門市)に生まれる[1]

1877年(明治10年)に撫養町林崎の亀井吉太郎(亀井吉衛)の門に入り天神真楊流を修行した[1][注釈 1]

1884年(明治17年)に目録、1888年(明治21年)に免許、1890年(明治23年)に免許皆伝を受けて撫養町で子弟を育てた。

その後兵庫県神戸市に移り住み、神戸市の小野柄通に眞武館道場を設け柔術の普及発展に努力した。この道場は門下生数千人を数えた。

1902年(明治35年)、兵庫県警察部に奉職し柔道教師となった。1903年(明治36年)8月に大日本武徳会より柔道精錬證を受けた。また日清戦争日露戦争にも出征した。

1912年(明治年45年)5月に柔道教士、1927年(昭和2年)5月に柔道範士の称号を受けた。

1929年(昭和4年)5月に大日本武徳会武道詮衝委員を嘱託された。

大日本武徳会本部教授、大日本武徳会兵庫支部、神戸一高、神戸水上警察署の柔道教師を務めた。

脚注

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注釈

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  1. ^ 亀井吉太郎は亀井吉衛とも書かれる。江戸時代に摂州兵庫(現在の兵庫県)で天神真楊流を学んだ。その後郷里の板野郡撫養町林崎に帰り亀井道場を設け、明治維新に亘り天神真楊流を指南していた。撫養町には文明橋を境界に西は真楊心流伊藤道場、東は亀井道場の二つの道場があり互いに技を競っていた。亀井道場では試合が行われていたが、当時は広い道場ではなかったため芝生で試合をしていた。亀井道場の免許皆伝は、小角弥三次の他に上田常三郎、富升宇平、木納清三郎、杉田陸太郎、木下源吉などがいた。亀井道場は明治37年~38年の日露戦争の前後に道場がなくなった。その後撫養町では富升宇平が道場を設けていたが、それもなくなり撫養町では天神真楊流は行われなくなったとされている。

出典

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  1. ^ a b 笹橋儀作 『徳島県柔道の変遷 : 研究と体験』1958年

参考文献

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