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小野寺信

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小野寺 信
1942年12月、ドイツ陸軍第21軍フィエル要塞を視察訪問した際の小野寺信(当時陸軍大佐
生誕 1897年9月19日
日本の旗 日本 岩手県
死没 (1987-08-17) 1987年8月17日(89歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1919 - 1945
最終階級 陸軍少将
配偶者 小野寺百合子(妻)
子女 大鷹節子(次女)
親族 小野寺通
墓所 東京都港区 長谷寺
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小野寺 信(おのでら まこと、1897年明治30年〉9月19日 - 1987年昭和62年〉8月17日)は、日本陸軍軍人翻訳家最終階級陸軍少将

経歴

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1897年、岩手県胆沢郡前沢町(現在の奥州市)において町役場助役・小野寺熊彦の長男として生まれる。12歳の時に熊彦が病死し、本家筋の農家・小野寺三治の養子となる。遠野中学校仙台陸軍地方幼年学校陸軍中央幼年学校を経て、1919年(大正8年)5月、陸軍士官学校を卒業(31期、歩兵科。歩兵科5位で恩賜の銀時計を拝受[1])、見習士官陸軍歩兵曹長)となる。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第29連隊附となる。翌1920年(大正11年)に発生した尼港事件を受けてニコラエフスクを保障占領し、1921年(大正10年)、第29連隊はアムール河口地帯守備のために尼港に派遣される。小野寺も最初で最後の戦場での勤務を行い、現地でロシア語を習得する。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を卒業し、歩兵第29連隊中隊長となり、会津若松へ赴任する[2]

当初はドイツ駐在を希望して外国駐在試験を受けていたが、ロシア語の能力を見込まれて翌1930年(昭和5年)3月、陸軍歩兵学校教官として千葉に転任。上官の小畑敏四郎大佐に目をかけられ、赤軍研究を集中的に行い、ロシア専門家としての道を歩み始める。1932年(昭和7年)3月、小畑の人事異動に従って陸大教官に転身。ここでも本来の講義と別に個人で赤軍研究を継続する。研究を経て、ロシア革命後に機械化を進めた赤軍に対する脅威を主張するようになる。陸大在任半年で参謀本部第2部ロシア班に引き抜かれた。作戦課長として参謀本部に配属されていた小畑の手引きで、1933年(昭和8年)5月、ハルピンへ赴任。語学研修の傍らで国境視察なども行い、赤軍の作戦などについてレポートをまとめている。帰国後の1934年(昭和9年)8月、陸軍歩兵少佐に進級[3]

小野寺信少将の軍服(正装)。敗戦後の1945年秋に、小野寺からスウェーデン陸軍博物館ストックホルム)に寄贈された[4]

1935年(昭和10年)12月、ラトビア公使館附武官に発令され、翌1936年(昭和11年)1月、首都リガに着任。ラトビアを含むバルト三国は西欧の対ソ最前線であり、各国の諜報活動が盛んであった。小野寺が赴任した当時の日本公使館は補佐官もいない小所帯であったが、バルト三国の重要性を認識した小野寺は本国にかけ合い、隣国のエストニアリトアニア公使館附武官を兼務するようになる。三国の参謀当局は地の利はあったが、資金面から諜報範囲が限られていたため、日本側が必要な諜報活動費を援助した。また、当時ベルリンの駐独大使館には参謀本部直属の諜報工作組織(馬奈木敬信機関)があり、対ソ工作員を養成していた。工作員はエストニアからペイプシ湖を通してソ連に送り込んでいたため、エストニアにかけ合って送り込むための高速船の手配も行った。1937年(昭和12年)11月、陸軍歩兵中佐に昇進[5]

1938年(昭和13年)6月、参謀本部ロシア課に復帰。その直後に発生した張鼓峰事件の対処にあたった後、同年10月、中支那派遣軍司令部附として上海に派遣される。当時中国大陸で進行中であった日華事変の収束策として、参謀本部の支那課は汪兆銘政権の樹立による和平交渉を検討していたが、ロシア課は対ソ防衛のためには事変を早期終結させるべきと考えており、小野寺は武漢に籠る蔣介石との直接の交渉を企図する。小野寺は市内のアスターハウスホテルに事務所を置き、自前の特務機関を構えた。メンバーには軍人は一人も含まれず、共産党転向者を中心に20人ほど採用した。1939年(昭和14年)5月、香港において板垣征四郎陸相と国民党の呉開先組織部副部長との直接会談を行う根回しを行うが、汪兆銘工作を進めていた影佐禎昭の巻き返しにあい、通らなかった。6月には本国へ戻された上で陸大教官に就任、事実上の左遷となった。同年8月、陸軍歩兵大佐に進級した[6]

1942年12月、ドイツ陸軍上級大将(第21軍司令官ニコラウス・フォン・ファルケンホルスト、左端)以下、独陸海空軍の将校らと写る小野寺(中央)

1940年(昭和15年)11月、スウェーデン公使館附武官に発令され、翌41年1月、ストックホルムに着任、12月に太平洋戦争大東亜戦争)を迎えた。諜報活動の他、クリプトテクニク社(現・クリプトA.G.)から最新の暗号機械を買いつけたり、ピアノ線とボールベアリングを調達し、ドイツ経由で本国に送っている。1943年(昭和18年)8月、陸軍少将に進む。この頃からSD国外諜報局長であるヴァルター・シェレンベルクと共に和平工作に従事する。後述のドキュメンタリー番組では、カール・ベルナドッテを経由したスウェーデン王室の仲介による和平に期待をしていた。

小野寺の送った機密情報は「ブ情報」と呼ばれ、海外からの貴重な情報源となった。「ブ情報」の「ブ」は、「ペーター・イワーノフ」ことポーランド人諜報部員ミハウ・リビコフスキ (Michał Rybikowski) の上官ブジェスクフィンスキの頭文字である。大戦最末期にはヤルタ会談での密約につき、ドイツ降伏から約3ヶ月後にソ連が日ソ中立条約を破棄、対日参戦するとの最高機密情報を日本に打電している。陸軍中枢はその情報を信じず、アメリカとの和平の仲介をソ連に期待し続けた。

敗戦後の1946年(昭和21年)3月に日本に帰国復員したが、同年7月まで戦争犯罪人として巣鴨プリズンに拘留された。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]

戦後は妻百合子とともに、主にスウェーデン語の翻訳業に従事する傍ら、スウェーデンの文化普及活動に努めた。最晩年に『NHK特集 日米開戦不可ナリ 〜ストックホルム・小野寺大佐発至急電〜』で取材インタビューが行われ、1985年(昭和60年)12月に放映された[8]。この番組は第12回放送文化基金賞を受賞し、小野寺の大戦中の活動に照明が当てられた。

エピソード

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  • 陸士31期を卒業する際に恩賜の銀時計を拝受した(歩兵科5位)[1]。また、旧主の南部利淳から軍刀を拝領し、この軍刀は後にストックホルム引き揚げの際に政府に寄贈した[9]
  • 著述の才能に恵まれていて、対赤軍戦術をまとめた参考書は「赤本」と呼ばれていた。参謀本部ロシア班に配属後、ロシア班として中華民国や米国も含めた研究書『隣邦軍事研究』を偕行社から出版すると、青年将校の間でベストセラーになる。収益でロシア班はタイピストを2人雇うことができたが、直属の上司(第二部長)であった永田鉄山大佐から「儲けすぎだ」と叱責を受けたという[10]

栄典

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外国勲章佩用允許

親族

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著書

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図書
  • 『スウェーデンの安全保障政策の基本構想』スウェーデン社会研究所〈資料 ; 第23号〉、1984年。 NCID BN14486493 
  • 『平和国家への研究 小野寺信遺稿集』出版者 小野寺百合子、1988年。 NCID BN05866176全国書誌番号:89033331 
記事・論文

翻訳

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小野寺信訳
百合子夫人と共訳

その他

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ドキュメンタリー

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  • NHK特集「日米開戦不可ナリ〜ストックホルム 小野寺大佐発至急電〜」(1985年12月8日、NHK[8] ※ 放送時のインタビューを含む。

脚注

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  1. ^ a b 秦 2005, pp. 625–631, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-6.陸軍士官学校卒業生
  2. ^ 岡部 2012, pp. 86–90.
  3. ^ 岡部 2012, pp. 90–95.
  4. ^ Vapenroc”. Vapenrock - Armémuseum / DigitaltMuseum. 2022年3月27日閲覧。
  5. ^ 岡部 2012, pp. 103–117.
  6. ^ 岡部 2012, pp. 120–131.
  7. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」123頁。
  8. ^ a b NHK特集 日米開戦不可ナリ〜ストックホルム 小野寺大佐発至急電〜”. NHK (1985年12月8日). 2022年12月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年12月12日閲覧。
  9. ^ 岡部 2012, pp. 87–88.
  10. ^ 岡部 2012, pp. 92–93.
  11. ^ 谷正之外二十五名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113476800 、及び『官報』1943年9月17日「叙任及辞令」。
  12. ^ cf. 小野寺家と大鷹家の関係

参考文献

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関連出版

関連作品

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関連項目

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外部リンク

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映像外部リンク

富岡幸一郎 (8 August 2012). 【ヤルタ密約】ソ連参戦、握りつぶされた小野寺電[桜H24/8/8] (YouTube). 日本文化チャンネル桜.

—— 同日付け産経新聞記事 “ソ連参戦情報の「小野寺電」「大本営に着信」参謀が証言書簡”、“抹殺されたヤルタ密約知らせる「小野寺電」” に関する論評。