小野政直
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天文23年[1]8月27日(1554年10月3日)[1] |
別名 | 道高[注釈 1]、和泉守(通称) |
戒名 | 清仲源泉居士 |
主君 | 井伊直盛(直満) |
氏族 | 称・小野氏 |
父母 | 父:小野重正 |
子 | 道好、朝直、正賢、正親、ほか諸説あり |
小野 政直[注釈 2](おの まさなお)は、戦国時代の武将。遠江国引佐郡井伊谷の国人・井伊家の家老。
人物
[編集]父は井伊直平に仕えた小野兵庫助重正で、自身も井伊氏の重臣として仕え、直平の孫・井伊直盛[注釈 3]、あるいはその叔父・井伊直満[注釈 4]の家老であったという。
天文10年(1541年)、井伊家は駿河国主の今川家に従っていたが、甲斐国の武田家が遠江国への圧力を強めたため[注釈 3][注釈 5]、井伊家では井伊直満・直義兄弟が武田軍に備える準備をしていた。井伊直盛には嗣子がいなかったため、井伊直満の嫡男・亀之丞(のちの直親)が直盛の養子になることになっていた。しかし政直はこのことについて不満を抱き、密かに駿府の今川義元へ井伊直満・直義兄弟が謀反を計画していると讒言した。天文13年(1544年)、直満と直義は駿府へ召喚され、そこで両人は殺された。駿府より井伊谷へ戻った政直は義元の命を奉じ、残された亀之丞も殺害しようとしたが、直親の家老・今村正実らによって亀之丞は信濃国へ逃れた。
天文23年(1554年)没。跡は子の道好が継いだ。政直の死によって、直盛は信濃国に逃れていた直親を呼び戻すこととし、弘治元年(1555年)に今川義元の許しを得て直親を改めて嗣子として迎え入れた。
登場する作品
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 出典は明らかにしていない。
- ^ 「政直」の諱は一次史料には見られないが、『龍潭寺文書』のほか末裔に伝わる系譜史料に見られるという。
- ^ a b 『井伊家伝記』による説。
- ^ 小野家の由緒書による説。
- ^ ただし、この頃には武田家と今川家は婚姻同盟を結んでおり、事実かどうかは疑問である。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 歴史と文化の研究所 編『井伊一族のすべて』洋泉社、2017年。