コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小野政直

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小野道高から転送)
 
小野政直
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天文23年[1]8月27日1554年10月3日[1]
別名 道高[注釈 1]、和泉守(通称)
戒名 清仲源泉居士
主君 井伊直盛直満
氏族 称・小野氏
父母 父:小野重正
道好朝直、正賢、正親、ほか諸説あり
テンプレートを表示

小野 政直[注釈 2](おの まさなお)は、戦国時代武将遠江国引佐郡井伊谷国人井伊家家老

人物

[編集]

父は井伊直平に仕えた小野兵庫助重正で、自身も井伊氏の重臣として仕え、直平の孫・井伊直盛[注釈 3]、あるいはその叔父・井伊直満[注釈 4]の家老であったという。

天文10年(1541年)、井伊家は駿河国主の今川家に従っていたが、甲斐国武田家が遠江国への圧力を強めたため[注釈 3][注釈 5]、井伊家では井伊直満・直義兄弟が武田軍に備える準備をしていた。井伊直盛には嗣子がいなかったため、井伊直満の嫡男・亀之丞(のちの直親)が直盛の養子になることになっていた。しかし政直はこのことについて不満を抱き、密かに駿府今川義元へ井伊直満・直義兄弟が謀反を計画していると讒言した。天文13年(1544年)、直満と直義は駿府へ召喚され、そこで両人は殺された。駿府より井伊谷へ戻った政直は義元の命を奉じ、残された亀之丞も殺害しようとしたが、直親の家老・今村正実らによって亀之丞は信濃国へ逃れた。

天文23年(1554年)没。跡は子の道好が継いだ。政直の死によって、直盛は信濃国に逃れていた直親を呼び戻すこととし、弘治元年(1555年)に今川義元の許しを得て直親を改めて嗣子として迎え入れた。

登場する作品

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 出典は明らかにしていない。
  2. ^ 「政直」のは一次史料には見られないが、『龍潭寺文書』のほか末裔に伝わる系譜史料に見られるという。
  3. ^ a b 井伊家伝記』による説。
  4. ^ 小野家の由緒書による説。
  5. ^ ただし、この頃には武田家と今川家は婚姻同盟を結んでおり、事実かどうかは疑問である。

出典

[編集]
  1. ^ a b 歴史と文化の研究所, p. 64, 渡邊大門「井伊家当主の権限を代行した波乱の人生」

参考文献

[編集]
  • 歴史と文化の研究所 編『井伊一族のすべて』洋泉社、2017年。