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尼子再興軍の雲州侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尼子再興軍の雲州侵攻

真山(真山城址)の山頂に建つ尼子勝久の碑
戦争戦国時代 (日本)
年月日永禄12年6月(1569年8月)
場所真山城(現在の島根県松江市法吉町)
結果:尼子再興軍の勝利
交戦勢力
尼子再興軍 毛利軍
指導者・指揮官
尼子勝久
山中幸盛
多賀元龍
戦力
約3,000(雲陽軍実記陰徳太平記 不明
損害
不明 不明
毛利元就の戦い

尼子再興軍の雲州侵攻(あまごさいこうぐんのうんしゅうしんこう)とは、永禄12年6月(1569年8月)、雲州(出雲国)奪還を目指す尼子再興軍が但馬国から舟に乗って海を渡り、島根半島に上陸して毛利軍より真山城を奪った戦いである。

戦いまでの経緯

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毛利氏の台頭と尼子氏の滅亡

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毛利元就。安芸国の吉田郡山城に生まれる。大内・尼子氏を滅ぼし、中国地方随一の戦国大名となった。

16世紀の前半から中盤(1500年1550年)にかけて、中国地方大内氏尼子氏の対立を中心に各地で争いが行われてきた。

しかし、天文20年8月(1551年9月)、大内氏の重臣・陶隆房(陶晴賢)がクーデターを起し、主君である大内義隆を殺害する事件(大寧寺の変[注釈 1]を契機として中国地方の勢力構図は大きく変わっていく。

この事件を契機として頭角を現してきたのは、安芸国を拠点に活動する戦国大名・毛利氏であった。毛利氏の当主・毛利元就は、天文24年10月1日(1555年10月16日)に陶晴賢を厳島の戦いで破ると[2]弘治3年4月(1557年5月)には大内氏を滅ぼし[注釈 2]、防長2国(周防国長門国)を新たに支配した(防長経略)。そして、永禄2年(1559年)には備中国へ兵を進め、尼子方の国人庄氏を屈服させると[4]、同国の有力国人・三村氏らと手を組むことによって[5]備中一国を平定する[6][7]。永禄5年6月(1562年7月)には、尼子氏の石見国の拠点・山吹城を攻略して石見銀山を掌握し[8]、石見国も支配下におさめた[9]

一方の尼子氏は、大寧寺の変以降に石見方面へ勢力を伸ばし(忍原崩れ[10][注釈 3]。)、石見銀山の掌握と経済基盤の拡大を図った[12][注釈 4]。しかし、永禄3年12月24日(1561年1月9日)に当主であった尼子晴久が急死し[14]、その跡を嫡男尼子義久が継ぐと、外交政策の失敗等もあり尼子氏の勢力は弱体化していった。義久が継いで2年と経たない永禄5年(1562年)中頃には、尼子氏の支配する領域は、拠点である出雲国隠岐国、西伯耆の一部を残すのみとなるまで減少する。

戦国大名・尼子氏が居城とした月山富田城。

永禄5年7月3日(1562年8月2日)、毛利氏の当主・元就は、尼子氏を滅ぼすため出雲へ進軍する[15]。元就に率いられた毛利軍は出雲へ入国すると、尼子方の有力国人らを次々と服従させつつ陣を進めていき、永禄5年12月(1563年1月)には島根半島荒隈(洗合)へ本陣を構え[16]、尼子氏の居城・月山富田城攻めを開始する。

この毛利軍の侵攻に対し、尼子軍は各地で戦いを繰り広げつつ激しく抵抗していった。しかしながら、永禄6年10月(1563年11月)に島根半島に位置する補給要衝・白鹿城を毛利軍によって奪われると[17]白鹿城の戦い)、続いて永禄8年(1565年)初頭には西伯耆一円を毛利軍によって支配され[18]、尼子氏の居城・月山富田城は完全に孤立する。

こうして尼子軍の補給経路を絶ったうえで毛利軍は、永禄8年4月(1565年5月)に洗合から星上山(現在の島根県松江市八雲町)へ本陣を移すと[19][注釈 5]、月山富田城への攻撃を開始する。毛利軍は城下で麦薙ぎを行うとともに、同月17日(5月16日)には月山富田城へ総攻撃を行った[19][注釈 6]第二次月山富田城の戦い)。この攻撃は尼子軍の抵抗により失敗に終わるも、その後、毛利軍は兵糧攻めの作戦に切り替えて月山富田城への圧力を強めていった。

永禄9年11月21日(1567年1月1日)、居城である月山富田城を毛利軍によって包囲されていた義久は、これ以上戦うことはできないと判断し毛利氏に降伏する[21]。同月28日(1月8日)、義久は城を明け渡し[22]、ここに戦国大名・尼子氏は一時的に滅びることとなる。

尼子勝久の擁立

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山中幸盛。出雲尼子氏の家臣。尼子氏滅亡後、 主家再興を目指し奔走する。

尼子氏滅亡後、居城であった月山富田城、及び尼子氏の所領は毛利氏の支配下に置かれることとなった。義久とその兄弟3人は、一部の従者と共に円明寺へ連行され幽閉の身となり[23]、その他の尼子家臣らは出雲から追放され牢人となった[19]

滅亡した尼子氏であったが、尼子諸牢人の中には一族の再興を目指す者がいた。その中心となった人物が山中幸盛である[24]

永禄11年(1568年)、幸盛は各地を放浪した後、当時、同じく尼子の遺臣で松永久秀の配下となっていた横道秀綱の便りを受けてへ上ると[25]、京の東福寺[注釈 7]となっていた尼子勝久還俗させ、尼子再興軍の大将として擁立する[27]

この新たに大将として擁立された勝久は、尼子新宮党の一族・尼子誠久の5男の生まれで[28]、同じ尼子氏一族の者であった。しかしながら去る天文23年11月1日(1554年11月25日)[28][注釈 8]、当時の尼子家当主・尼子晴久によって新宮党一族の粛清が行われ、一族の者は殺されるか、あるいは尼子氏の領国外へ逃亡することとなった[31]新宮党の粛清事件)。当時、幼子であった勝久はこの粛清から逃れるため、乳母人に抱えられ富田(島根県安来市広瀬町)から備後の徳分寺へ落ち延び、成長後にこの東福寺で僧となっていた経緯があった[25][32]

尼子氏の血を引く一族を見つけ出した幸盛らは、各地の尼子遺臣らを集結させると、京に潜伏して密かに尼子家再興の機会をうかがうこととなる。

毛利氏の九州出兵

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大友宗麟。豊後国臼杵城を本拠とする戦国大名。最盛期には北九州6カ国を支配した。

大内氏・尼子氏を滅ぼし、中国地方をほぼ手中に収めた毛利氏が次なる目標に定めたのは、北九州を治める大友氏の討伐であった。

毛利氏と大友氏は、以前より豊前国門司城を巡って、たびたび争いを繰り返してきた経緯があった(門司城の戦い)。しかし、尼子氏が滅亡する前の永禄7年7月(1564年8月)、当時の将軍足利義輝の斡旋により「豊芸講和」と呼ばれる和平協定が締結され[33][注釈 9]、毛利氏と大友氏との争いは休戦状態となっていた。

この和睦は、尼子氏討伐に集中したい毛利氏にとっても、豊前の毛利方の国人等に度々反乱を起され、その支配体制が不安定となっていた大友氏にとっても都合の良いものであった[35]。これにより、毛利氏と大友氏との争いは収束するかのように見えた。しかしながら、永禄8年6月(1565年7月)、大友氏が豊前の毛利方の国人・長野筑後守の拠る長野城を攻撃したことで[36][37]、再び両氏の間に緊張が高まる。長野氏は同年8月に大友氏に降伏し[38][注釈 10]、朝廷が仲介した講和もわずか1年足らずで形骸化していくのである。

さらに永禄10年6月(1567年7月)、大友氏は毛利方の国人・高橋鑑種を討伐するため軍を起す[40][注釈 11]筑前国岩屋・宝満城の城督である鑑種は、大友氏の一門・一万田氏の出身で名族・大蔵流原田一門の高橋氏の名跡を継いだ者であったが、去る永禄5年(1562年)、大友氏を裏切り毛利氏に味方した経緯があった[42]

同月10日(8月14日)、大友軍が宝満城に着陣したところ[43]、かつて毛利氏に味方していた豊筑(豊前国筑前国)の国人衆、秋月氏宗像氏らが鑑種に呼応して再び大友氏に背いた[44]休松の戦い)。さらに永禄11年2月(1568年3月)には、立花城の守将・立花鑑載が鑑種の誘いを受けて毛利氏に味方する事件も発生する[45][46]。大友氏は鑑載討伐のため軍を派遣し、同年7月4日(7月28日)に立花城を攻略する[47]。同城は大友氏の所領するところとなり、鑑載は逃亡中に討ち取られることとなった[48]。こうして毛利氏と大友氏は、豊筑の国人衆と大友氏との争いを契機として、再び全面戦争へと突入していくのである。

永禄11年6月(1568年7月)、元就は九州の反大友勢力を支援するため、伊予国に出兵していた吉川元春小早川隆景の両軍を本国である安芸国に帰還させると[49]毛利氏の伊予出兵)、同年8月には両将を北九州に派遣し、大友氏との争いを本格化させていく[50]

九州に着陣した吉川・小早川の両軍は、大友方の諸城を次々と攻略して陣を進め、永禄12年3月中旬(1569年4月ごろ)には立花城へ向け出陣する[51]。この立花城は標高367mの立花山に築かれた城で、海路交通の要衝でもあり、また海外貿易の要となる博多港を支配する上でも重要な拠点であった。同年4月(1569年5月)には、元就も病身を押して居城である吉田郡山城を発ち、長門国へ向けて出陣する[52]。元就は同年5月に長府に入ると、ここに本陣を構えて大友氏討伐の拠点とした[53]。このとき、元就の出陣にあわせ山陰地方の多くの国人達にも九州への出兵が命じられており、山陰地方の毛利領の警備は手薄となっていった[24]

同年4月16日(4月30日)、元就は、吉川・小早川の両軍を立花城の麓に着陣させると、立花城への攻撃を開始する[54]。これに対し大友氏は、戸次鑑連吉弘鑑理臼杵鑑速の三老を救援部隊として派遣し、立花城下で毛利軍と激しい戦いを繰り広げていった[55]。結局、閏5月3日(6月17日)に立花山城の兵糧が尽きかけていたのため、城にいる大友方の守将達は大友宗麟の同意を得て開城、毛利軍が佔領した[56][57]

これにより、立花城を巡る大友・毛利両軍の戦線は膠着することになった。毛利方の予想に反し、大友軍はその後も一向に撤退しなかった[58][59]。結果、毛利軍の主力は立花城に釘付けとなり、戦いは長期化の様相を呈するのである(多々良浜の戦い)。

戦いの経過

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尼子再興軍の挙兵

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尼子勝久。尼子氏一族・尼子誠久の5男。東福寺で僧となっていたが、山中幸盛らに擁され還俗し尼子再興軍の大将となる。

この毛利・大友軍の戦いの様子は、雑説となって出雲にも伝わっていた。この情勢を尼子家再興の好機ととらえる者がいた。出雲の神魂神社社家一族・秋上三郎右衛門尉(秋上幸益)[注釈 12]である。

秋上氏は、出雲大社出雲国造一族・北島氏方の神官として、神魂神社を北島氏に代わって務める神主(権神主)の一族にすぎなかったが、永正年間(1504年1521年)の中頃から尼子氏と結びつくことによって神魂神社の正神主の地位を獲得し[60]、出雲大社の支社にすぎなかった神魂神社の自立化と権力の掌握を図ってきた経緯があった。また、永正14年(1517年)には一族の者が尼子家家臣に組み込まれるなど[61]、秋上氏と尼子氏は緊密な関係にあった[62]

幸益は、山陰地方の毛利領の警備は手薄となっていること、また、毛利・大友軍の戦いは長期化の様相を呈し、すぐさま毛利軍の主力は山陰地方へ引き返せないことを予測し、密かに京に上る。そして、潜伏する尼子勝久・山中幸盛と申し合わせ、出雲侵攻への好機であることを伝える[63]。はたして永禄12年6月(1569年7月)、勝久率いる尼子再興軍は出雲に向けて兵を挙げる。当初、勝久に付き従う将兵は数百名程度[注釈 13]であったという(主要な武将は#当初より参戦した武将を参照[注釈 14])。

このとき、尼子再興軍を支援したのは山名祐豊であった。山名氏の当主として長年にわたって尼子氏と敵対してきた祐豊であったが、領国であった備後伯耆因幡を毛利氏によって制圧されてきており、勢力回復を図るにあたって手を結んだと考えられる[64]

勝久ら尼子再興軍は、祐豊の重臣・垣屋播磨守(垣屋光成 )を頼り京から祐豊の領国・但馬国へ向うと[63][32]丹州の海賊・奈佐日本之介の力を借りて数百艘の舟に乗り[65]隠岐国へ渡る[25][32][26]。隠岐へ渡った勝久一行らは領主・隠岐為清に歓迎され、為清は、わざわざ原田の勝山に城を築いて勝久を迎え入れたという[25][32]

これら一連の尼子再興軍の動きは、遠く離れた長門国や豊後国へも噂となって流れていった。

永禄12年5月(1569年5月)、どこまで情報を得ていたか定かでないが、豊後の大友宗麟は、北九州へ毛利方の武将として従軍していた旧尼子家臣・米原綱寛に対し「この機会に勝久御一家再興に協力し、本意を遂げられることが肝要に候」として、尼子家再興軍へ味方するよう勧めている[66]

また、長府に在陣する毛利元就の下へも「尼子牢人共、但州(但馬国)に差集まり、一揆の企ての由」という雑説となって知らされていた[67]。しかしながら幸益ら尼子再興軍が予期したとおり、元就も即座に山陰地方の防備を強化するだけの戦力的余裕はなかった。元就は、山陰地方の城番等にこれらの一揆に注意するよう書状で伝えるだけに留め[67]、引き続き長府に在陣し大友氏の討伐に力を注ぐこととなる。

尼子再興軍の雲州上陸、真山城の戦い

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忠山の山頂から望む島根半島の千酌湾。千酌湾は、古代より本土から隠岐国へ渡る港であった。

永禄12年6月23日(1569年8月6日)[32]、尼子再興軍は、隠岐国から軽舟に乗って海を渡り島根半島の千酌(ちくみ)湾[注釈 15](島根県松江市美保関町)に上陸すると[25][32]、近くにあった忠山(ちゅうやま)の砦を占拠する[69]。勝久らがここで尼子家再興の檄を飛ばすと、国内に潜伏していた旧臣らが続々と集結し、5日の内に3,000余りの軍勢になったという[25][32](主要な武将は#出雲で参戦した武将を参照)。

出雲に上陸し、多勢となった尼子再興軍がまず始めに目標に定めたのは、島根半島の重要拠点・真山城の攻略であった。真山城は、島根半島の北山山脈に位置する標高256mの真山に築かれた城であり、かつて毛利氏が尼子氏の重要拠点である白鹿城を攻める際(白鹿城の戦い)、吉川元春が陣を敷いた拠点でもあった[25]。尼子氏滅亡後、毛利氏は白鹿城を廃城して、この真山城を白鹿城に替わる新たな島根半島の拠点として整備していたため[25]、日本海側からの補給要衝として、また、月山富田城の補給経路を絶つ上でも重要な拠点であった。

同月下旬、勝久率いる尼子再興軍は、真山城を攻撃するため進軍する。このとき、真山城を守っていたのは多賀元龍であった[70]。戦いは、尼子再興軍が真山城へ攻め込むと、元龍は一戦にして敗れ、城を捨てて退却する[25][32]。尼子再興軍は1日にして真山城の奪取に成功するのである。

戦後の影響

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戦いに勝利した尼子再興軍は、宍道湖北岸に位置する末次(島根県松江市末次町。現在の松江城の建設地。)に城を築き(末次城)[71]、この城を拠点とした[25][32]。この末次の地は、かつて毛利氏が尼子氏を滅ぼすために本陣とした荒隈城から西方に1kmばかり行った所に位置し、尼子氏の居城・月山富田城を攻める際にはこの地を抑えることが重要であった。尼子氏滅亡後、荒隈城は廃城となっていたため、荒隈城に代わる新たな拠点として尼子再興軍が整備した城と考えられる。

末次城に本陣を移した尼子再興軍は、 かつての尼子氏の居城・月山富田城を攻略するため準備を進める。宇波(島根県安来市広瀬町宇波)、山佐(同町山佐)、布部(同町布部)、丸瀬など月山富田城の周囲に10箇所あまりの向城を築くとともに[25][32]、1ヶ月の間に毛利氏方の城を8箇所[注釈 16]攻略し[25]、山陰地方の各地で合戦を繰り広げつつ勢力を拡大させていった。

そして7月中旬(9月上旬)、ついに尼子再興軍は月山富田城攻めを開始する(尼子再興軍による月山富田城の戦い)。

一方、毛利氏は大友氏との争いの末に立花城を奪取するも、引き続き大友軍が立花城に留まり続けたため、軍を動かすことができないでいた。毛利氏の立場が厳しくなってくるのはこの頃からである。

閏5月下旬(7月中旬)、北九州において反大友勢力の一翼を担っていた秋月種実が、長い籠城の果てについに大友氏に降伏した[72][73]。7月下旬(9月中旬)頃には出雲において「在々所々の者共、残す所無く彼牢人(尼子再興軍)に同意候」と月山富田城の城主・天野隆重が書状で伝える様に[74]、出雲国一円を尼子再興軍が支配する状態となった。さらに10月11日(11月19日)には、大友氏の支援を受けた大内輝弘が海を渡り[75] 、その翌日には周防山口の大内屋敷跡を襲撃してその地を一時占拠する事態も発生した[76]大内輝弘の乱)。毛利氏の領国支配体制は一転、最大の危機を迎えるのである。

ここに至って毛利氏の当主・毛利元就は、北九州に在陣する毛利軍の撤退を決定する。10月15日(11月23日)、立花城に在陣する毛利軍は、乃美宗勝、桂元重、坂元祐[77]わずかな兵を残して撤退を開始し[78]、その他の北九州に在陣する毛利軍も随時撤退していった。11月21日(12月28日)には城に残っていた宗勝らも退却し[79]、 毛利軍は門司城を残して北九州から全て撤退する。

これにより、毛利氏の後ろ盾を失った北九州地方の毛利方の国人等は、相次いで大友氏への降伏を余儀なくされる[注釈 17]。今回の戦いの引き金となった高橋鑑種も所領を召し上げられて豊前小倉(小倉城)へ移されることとなり、鑑種の所領であった宝満・岩屋両城は、高橋氏の名跡を継いだ吉弘鑑理の子・鎮種(高橋紹運)が治めることとなった[80]。多大な犠牲を払ってまで出兵した毛利氏の北九州への侵攻は、完全に失敗に終わるのである。

他方、大友氏にとっては、この戦いによって領国内の反乱勢力が一掃され支配体制の強化が図られた。これにより、大友氏は一族の最盛期を迎えることになる。

尼子再興軍の参戦武将

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当初より参戦した武将

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  • 吉田八郎左衛門
  • 吉田三郎左衛門
  • 横道秀綱
  • 横道権之丞
  • 牛尾弾正忠
  • 牛尾大炊介
  • 三刀屋家忠
  • 遠藤甚九郎

※下記の武将は『陰徳太平記』のみ記載あり。

  • 河副久盛
  • 川添三郎左衛門
  • 川添次郎左衛門
  • 目黒重清
  • 米原助十郎
  • 月坂助太郎
  • 力石九郎兵衛
  • 平野加兵衛
  • 平野源助
  • 卯山弥次郎
  • 三吉五郎左衛門
  • 三吉甚次郎
  • 小林甚助
  • 青砥助次郎
  • 日野又五郎
  • 大塚弥三郎
  • 大野平兵衛
  • 日野助五郎
  • 福山内蔵允
  • 中井与次郎
  • 片桐治部丞
  • 江美源内左衛門


出雲で参戦した武将

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  • 原田孫六
  • 松田誠保
  • 熊野兵庫介
  • 熊野次郎
  • 馬田兵庫介
  • 馬田長左衛門
  • 桜井与八
  • 朝山六郎
  • 田原右衛門
  • 大山の教悟院
  • 中井平蔵
  • 中井助右衛門
  • 加藤彦四郎
  • 寺本市之丞
  • 進左吉兵衛
  • 高尾右馬允
  • 高尾宗兵衛
  • 目加田采女佐
  • 目加田団右衛門
  • 福山次郎左衛門
  • 福山弥次郎
  • 長森吉内
  • 日野一族
  • 熊谷新右衛門
  • 池田与三郎
  • 相良助太郎
  • 比田十郎
  • 徳吉孫九郎

脚注

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注釈

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  1. ^ 『新裁軍記』巻七「天文二十年」。天文20年8月28日(1551年9月28日)、陶隆房が大内義隆を討つため山口へ進軍。義隆は同年9月1日(1551年9月30日)に大寧寺で自害[1]
  2. ^ 『新裁軍記』巻十三(弘治三年)。弘治3年4月3日(1557年5月1日)に大内義長が自害し、これにより大内氏は滅亡した[3]
  3. ^ 忍原崩れがあったのは弘治2年7月下旬。『大日本古文書-毛利家古文書-』の編纂者は、この書状を永禄元年と推定しているが、最近の研究では弘治2年の書状であることが指摘されている[11]
  4. ^ 石見銀山を掌握するための重要拠点・山吹城を、尼子氏が攻略したのは弘治2年9月3日をそれほど遡らない時期[13]
  5. ^ 『二宮佐渡覚書』では星上山でなく京羅木山。
  6. ^ 『雲陽軍実記』では4月18日。4月17日は凶日なので1日伸ばした[20]
  7. ^ 『太閤記』では泉州[26]
  8. ^ 『雲陽軍実記』『陰徳太平記』では、天文23年正月(1554年2月2日)[29][30]
  9. ^ 7月25日付けで大友宗麟から毛利氏へ起請文の提出があり、これを受けて2日後の7月27日付けで毛利氏から大友氏へ起請文[34]が送られた。
  10. ^ 長野筑後守はその後、永禄11年5月3日に何者かに暗殺され、長野弘勝が後を継ぐ。弘勝は毛利氏から離反し大友氏に属するが、同年9月上旬に毛利氏に攻められ滅亡した[39]
  11. ^ 永禄10年3月までには、大友氏は鑑種を討伐することを決定していた[41]
  12. ^ 秋上三郎右衛門尉。秋上宗信(秋上庵介)の父。『陰徳太平記』などの軍記資料では秋上綱平と記される。
  13. ^ 『雲陽軍実記』は約300名[25]。『陰徳太平記』では約200名[32]。『太閤記』では約500名[26]と軍記資料によって異なる。
  14. ^ 『国造火継旧記』によれば、山中幸盛・秋上宗信が足軽大将。
  15. ^ 千酌湾は『出雲国風土記』においても「此は謂わゆる隠岐国に渡る渡し場なり」[68]とあるように、古代から隠岐へ渡る港であった。
  16. ^ 『陰徳太平記』では6・7箇所[32]
  17. ^ 高橋鑑種、秋月種実らと共に大友氏に背いた宗像氏貞も大友氏に降伏した[75]

出典

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  1. ^ (天正3年)1月吉日 多々良氏譜牒並龍福寺来由『閥閲録・龍福寺』。
  2. ^ 天文24年10月20日 井上又右衛門 宛て 小早川隆景感状『閥閲録11ノ2』ほか。
  3. ^ (弘治3年5月9日 刑部大輔・兒玉若狭守 宛て 毛利元就書状『閥閲録84』
  4. ^ 永禄2年(4年ヵ)4月20日 井上又右衛門尉 宛て 小早川隆景感状『閥閲録11ノ2』。『桂桂岌円覚書』。備中松山城が落城したのは4月6日(5月12日)。
  5. ^ (年月日未詳)毛利隆元 御返事 毛利元就自筆書状『毛利家文書429』。
  6. ^ 御湯殿上日記 永禄2年5月13日の条。毛利隆元が備中平定の注進書と頸注文とを朝廷に献上。
  7. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 340.
  8. ^ (永禄5年)6月8日 出羽民部大輔 宛て 毛利元就・同隆元連署起請文写『閥閲録43』。山吹城の城番・本城常光が毛利氏に降伏した時期は永禄5年6月上旬ごろ。
  9. ^ (永禄5年)6月23日 毛利元就・同隆元連署書状写『閥閲録遺漏4-1』。
  10. ^ (弘治2年)7月晦日 能登守(桂元澄) 御返事 毛利元就自筆書状『毛利家文書636』。
  11. ^ 尼子氏の石見進出をめぐって 2000, p. 27.
  12. ^ (弘治2年)9月3日 益田伊豆守・益田刑部少輔 尼子晴久書状写『閥閲録168』。
  13. ^ 戦国大名尼子氏の研究 2000, pp. 98–99.
  14. ^ 尼子義久家臣人数帳『佐々木文書237』。
  15. ^ (永禄5年)7月29日 心東堂 宛て 三吉隆亮書状写『閲覧録遺漏4-1』『浄泉寺文書』。
  16. ^ (永禄5年12月) 兼重五郎兵衛 宛て 毛利元就書状写『閥閲録52』ほか。
  17. ^ (永禄6年)10月17日  棚守左近衛将監 御返報  吉川元春巻数并供米返事『切紙、厳島野坂文書』。
  18. ^ (永禄8年カ)正月28日 棚守左近衛将監 御宿所 毛利元就書状『切紙、厳島野坂文書』。
  19. ^ a b c 『森脇覚書』「雲州御弓矢最初之事」。
  20. ^ 『雲陽軍実記』第三巻「富田惣攻め三所合戦 並びに毛利勢、荒隈帰陣の事。
  21. ^ 永禄9年11月21日 毛利元就他3名連著血判状写『佐々木家旧蔵文書』『閲覧録29』。
  22. ^ 永禄9年11月28日 冷泉四郎 御返報 小早川隆景書状『冷泉家文書』『閥閲禄102』。
  23. ^ 『二宮佐渡覚書』「出雲富田の開城」。義久らが円明寺に到着したのは永禄9年12月14日。
  24. ^ a b 尼子氏と戦国時代の鳥取 2010, p. 80.
  25. ^ a b c d e f g h i j k l m 『雲陽軍実記』第四巻「尼子勝久雲州へ攻め入り 並びに旧交駆け集まり敵城を攻め落とす事」。
  26. ^ a b c 『太閤記』巻十九「鹿助尼子之貴族を求得し事」。
  27. ^ 『桂岌圓覚書』ほか。
  28. ^ a b 『佐々木文書』尼子氏系図。
  29. ^ 『雲陽軍実記』 第四巻「新宮党父子横死 並びに敬久討死落書の事」。
  30. ^ 『陰徳太平記』巻二十三「尼子晴久新宮党を殺す事」。
  31. ^ (天文23年)11月8日 福屋上野守 御返報 毛利元就・同隆元連署書状『個人蔵』。
  32. ^ a b c d e f g h i j k l 『陰徳太平記』巻第四十三「尼子勝久雲州入 付 松永霜台事」
  33. ^ 永禄7年7月25日 毛利陸奥守ほか2名 宛て 左衛門督入道宗麟起請文『吉川家文書69』ほか。
  34. ^ 大友左衛門督入道 宛て 毛利陸奥守ほか2名起請文写『大友家文書録』 
  35. ^ 西国の戦国合戦 2007, pp. 150–151.
  36. ^ (永禄8年)5月26日 椋梨治部少輔 宛て 小早川隆景書状『閥閲録59』。『萩藩閥閲録』の編纂者は、永禄11年ヵと推定しているが永禄8年が正しい。
  37. ^ 永禄8年6月22日 大友宗麟軍忠披見状『入江文書』。
  38. ^ (永禄8年)8月20日 佐田薩摩守 宛て 大友宗麟書状『佐田文書』ほか。
  39. ^ 西国の戦国合戦 2007, pp. 166–168.
  40. ^ (永禄)10年6月24日 五条 宛て 大友家家判衆連署状『五條文書』。
  41. ^ 永禄10年3月2日 右田弾正入道 宛て 大友宗麟書状写『右田家古文書』。
  42. ^ 豊後大友氏 2014, pp. 276–304, 「毛利氏の北九州経略と国人領主の動向-高橋鑑種の毛利氏方一味をめぐって-」荒木清二.
  43. ^ 永禄10年7月10日 大友宗麟軍忠披見状『田尻文書』。
  44. ^ 永禄10年9月3日 大友宗麟軍忠披見状『 五條文書 』。(永禄10年)9月7日 米多比五郎次郎 宛て 大友宗麟書状『米多比文書』ほか。
  45. ^ (永禄11年)4月12日 問註所統景 宛て 大友義鎮書状『問註所文書』。
  46. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 545.
  47. ^ 永禄11年7月4日 大友宗麟軍忠披見状『小野文書』ほか。
  48. ^ (永禄11年) 某(大友宗麟ヵ)書状写『増補訂正編年大友史料22』ほか。
  49. ^ (永禄11年)6月2日 内藤越後守 宛て 毛利元就・同輝元連署書状『閥閲録125』ほか。
  50. ^ (永禄11年)8月23日 赤穴右京亮 御陣所 毛利元就・同輝元連署書状『閥閲録37』。
  51. ^ (永禄12年)3月10日 赤名右京亮 御陣所 毛利元就・同輝元連署書状『閥閲録37-1』。
  52. ^ (永禄12年)4月16日 毛利輝元 御返事 毛利元就自筆書状『毛利家文書549』ほか。
  53. ^ (永禄12)5月1日 内藤新右衛門・同越後守 宛て 毛利輝元書状『閥閲録125』。『森脇覚書』。
  54. ^ (永禄12年)6月5日 相良義陽 宛て 吉川元春・小早川隆景連署書状『相良家文書』。
  55. ^ (永禄12年)壬5月28日 筑前国立花城合戦敵射伏人数注文『吉川家文書513』ほか。
  56. ^ (永禄12年)5月晦日 佐藤又右衛門尉 宛て 吉川元春・小早川隆景連署書状『佐藤文書』。
  57. ^ (永禄12年)壬5月5日 南方宮内少輔 宛て 少輔十郎元秋書状『閥閲録47』ほか。
  58. ^ (永禄12年)6月7日 湯原平次 宛て 小早川隆景書状『閥閲録115-1』ほか。
  59. ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 560.
  60. ^ 大永3年12月9日 神主秋上孫四郎 宛て 北島雅孝書状『秋上家文書』。
  61. ^ (年月日未詳)秋上氏由緒『秋上家文書』ほか。
  62. ^ 大社町史 1991, pp. 684–694.
  63. ^ a b (年月日未詳)国造火継旧記『北島家文書』。
  64. ^ 西国の戦国合戦 2007, p. 180.
  65. ^ 永禄12年9月15日 日御碕検校 宛て 尼子氏家臣連署奉書『日御碕神社文書』。尼子再興軍が丹州から数百艘の舟に乗って海を渡り、島根半島に上陸したことが記載される。
  66. ^ (永禄12年)5月17日 米原平内兵衛尉 宛て 大友宗麟書状『松原家文書』。
  67. ^ a b (永禄12年)6月12日 原太郎左衛門尉 宛て 毛利元就書状(原家文書)ほか
  68. ^ 『出雲国風土記』「嶋根郡」。
  69. ^ 永禄12年9月15日  日御碕検校 宛て 尼子勝久寄進状『日御碕神社文書』。
  70. ^ 『森脇覚書』「九州御陣之事」ほか。
  71. ^ (永禄12年)7月20日 湯原右京進 宛て 小早川隆景書状『閥閲録115ノ3』。
  72. ^ (永禄12年)壬5月21日 問注所刑部入道 宛て 大友宗麟書状『問註所文書』。
  73. ^ 西国の戦国合戦 2007, p. 171.
  74. ^ 永禄12年7月28日 天野隆重・新藤就勝連署預ヶ状『折紙、竹矢家文書』。
  75. ^ a b (永禄12年)10月28日 立花勤番・各御中御陣所 宛て 吉弘左近太夫鑑理書状写『無尽集』。
  76. ^ (永禄12年)12月25日 山縣備後守 宛て 毛利輝元感状写『閥閲録遺漏2の4』。
  77. ^ (永禄12年)11月18日 天野隆重 宛て 小早川隆景書状『稲田文書』ほか。
  78. ^ 元亀4年10月2日 井上又右衛門 宛て 小早川隆景感状写『閥閲録11ノ2』ほか。
  79. ^ (永禄12年)11月21日 秋月・毛利兵部少輔 宛て 田北鑑益書状『 無尽集』。
  80. ^ (永禄12年ヵ)11月25日 大友宗麟書状写『福岡市博物館購入文書』。

参考文献

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  • 山口県文書館 編修『萩藩閥閲禄 第一巻〜第四巻、別巻、遺漏』(マツノ書店 1995年)
  • 三坂圭治 校注『戦国期 毛利氏史料撰 』(マツノ書店 1987年) 中に『桂岌圓覚書』『老翁物語』を含む)
  • 米原正義 校注『戦国期 中国史料撰』(マツノ書店 1987年) 中に『二宮佐渡覚書』『森脇覚書』を含む)
  • 香川景継陰徳太平記 全6冊』米原正義 校注(東洋書院、1980年) ISBN 4-88594-252-7
  • 河本隆政『尼子毛利合戦 雲陽軍実記』勝田勝年 校注(新人物往来社 1978年)
  • 小瀬甫庵太閤記-新日本古典文学大系60』檜谷昭彦・江本裕 校注(岩波書店 1996年) ISBN 4-00-240060-3
  • 広瀬町教育委員会 編集『出雲尼子史料集(上巻)(下巻)』(広瀬町教育委員会 2003年)
  • 島根県古代文化センター『戦国大名尼子氏の伝えた古文書-佐々木文書-』(島根県古代文化センター 1999年)
  • 山本浩樹『西国の戦国合戦』吉川弘文館〈戦争の日本史12〉、2007年。ISBN 978-4-642-06322-7 
  • 編集 鳥取県公立文書館 県史編さん室 編『尼子氏と戦国時代の鳥取』鳥取県〈鳥取県史ブックレット4〉、2010年。 
  • 編修 三卿伝編纂所・監修 渡辺世祐 編『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年。 
  • 原慶三『尼子氏の石見進出をめぐって-石見銀山・吉川・小笠原氏との関係を注進に-』山陰歴史研究会〈山陰史談29号〉、2000年。 
  • 長谷川博史『戦国大名尼子氏の研究』吉川弘文館、2000年。 
  • 八木直樹編著『豊後大友氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第二巻〉、2014年。ISBN 978-4-86403-122-6 
  • 大分県教育庁文化課 編修『大友宗麟 資料集 第三巻・第四巻-大分県先哲叢書-』(大分県教育委員会 1994年)
  • 福岡市史編修委員会 編修『福岡市史 資料編 中世①・②』(福岡市 2010年・2014年)
  • 編集 大社町史編集委員会・監修 山本清 編『大社町史 上巻』大社町、1991年。 
  • 加藤義成 校注『出雲國風土記』(報光社 1965年)ISBN 978-4-89593-622-4