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尾原勝吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尾原 勝吉
生誕 (1899-04-01) 1899年4月1日
出身地 日本の旗 日本島根県簸川郡
死没 (1981-03-06) 1981年3月6日(81歳没)
学歴 明治大学商学部卒業(1925年)[1]
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者
著名な家族 尾原恒(息子)[2]

尾原 勝吉(おばら かつよし、1899年(明治32年)4月1日[1] - 1981年3月6日[3][4])は、日本指揮者ヴァイオリニスト

人物・来歴[5]

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島根県簸川郡久木村(現、斐川町美南)に2人兄弟の次男として生まれる。

1918年(大正7年) 明治大学商学部予科へ入学。在学中、1919年(大正8年) 宮内庁音楽部の山井基清ヴァイオリンの手ほどきを受け、習得する。多久寅にも師事。

1922年(大正11年)明治大学を卒業後は、近衛秀麿山田耕作らとNHK交響楽団の前身・新交響楽団を結成。ヴァイオリン奏者また指揮者として活躍。1923年(大正12年) - 明治大学交響楽団設立。

その頃、慶應と早稲田にはオーケストラがあってね。慶應はずいぶんと盛んで、その頃からワグネルと言っていたなあ。僕はそこの準部員みたくなっていて、演奏旅行でもなんでもくっついていったんだ。だけど、いつまでも他所へ行ってたって仕方がないので、ひとつ明治にも作ろうと思ってね。人を集めて同じようなのを作って演奏会も開いてね。その頃原宿に下宿していたんだけど、そこのおばさんが愉快な人で、一緒になって応援してくれるんだ。嬉しかったなあ。 — 「『明治大学交響楽団70年史』」[6]

1925年(大正14年) - 近衛秀麿山田耕筰等と「日露交歓交響管弦楽演奏会」に日本側楽団員30名の一員として参加。以後、近衛等と日本交響楽協会新交響楽団日本交響楽団NHK交響楽団に所属。この頃、ヨゼフ・ケーニヒニコライ・シフェルブラットに師事。

1930年(昭和5年) - 日比野愛次、大村卯七等とクリスタル・カルテットを結成。

1943年(昭和18年) - 日本交響楽団の常任指揮者として来日中のヨーゼフ・ローゼンシュトックに就いて指揮法を1年間学ぶ。ローゼンシュトックの行うラジオ放送では本番テストの棒を毎回振る。

1949年(昭和24年) - 山田一雄の急病の代役として、日響を指揮。「ピーターと狼」の日本初演をぶっつけ本番で振る。

1951年(昭和26年) - 東京工業大学管弦楽団常任指揮者に就任。1952年(昭和27年) - N響朝日文化賞受賞に際し、その功労に対し、N響より表彰される。

1953年(昭和28年) - 交響楽団員としての活動30周年を記念して、第一生命ホールにて特別演奏会が開かれ、その模様をニッポン放送が全国放送する。第1回六大学定期演奏会を指揮。

1957年(昭和32年) - 永年の音楽生活に対し記念講演会が開かれる。N響の定年制により勇退。定年勇退まで、N響草創期の原動力となる。同年一橋大学管弦楽団常任指揮者に就任。

以後は母校明治大学をはじめ学生オーケストラの育成に専心。明治大学交響楽団、東京工業大学管弦楽団、お茶の水管弦楽団、一橋大学管弦楽団、聖心女子大学オーケストラクラブを精力的に指導。昭和53年に引退するまで、各大学ジョイントによる演奏会も数回重ねた。

1963年(昭和38年) - お茶の水管弦楽団常任指揮者に就任。1966年(昭和41年) - 常任オケ4団体合同演奏会開催。

1973年(昭和48年) - 第1回五大学ジョイントコンサート開催。1974年(昭和49年) - 指揮者生活50周年記念祝賀会。

1977年(昭和52年) - 明治大学交響楽団常任指揮者を勇退。名誉指揮者に就任。明治大学より感謝状。

1978年(昭和53年) 長年の学生オケ指導に対し、勲五等双光旭日章受章[3]

1981年(昭和56年)3月6日 - 死去。81歳没。1981年(昭和56年)9月13日 - 日本教育会館にて「尾原勝吉先生追悼演奏会」を五大学のOB、OGが開催。

脚注

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  1. ^ a b 音楽年鑑 1970.
  2. ^ 尾原 1981.
  3. ^ a b 楽団紹介”. 明治大学交響楽団ウェブサイト. 2023年6月25日閲覧。
  4. ^ NHK交響楽団 1981.
  5. ^ 明治大学交響楽団OB会 1995, p. 24-25.
  6. ^ 明治大学大鑑編纂委員会 1958, p. 148.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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