尾崎忠治
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尾崎忠治 | |
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生年月日 | 1831年3月15日 |
出生地 | 土佐国 |
没年月日 | 1905年10月16日(74歳没) |
称号 | 正二位勲一等男爵 |
大審院長 | |
在任期間 | 1886年8月12日 - 1891年4月8日 |
元首 | 明治天皇 |
枢密顧問官 | |
在任期間 | 1890年8月21日 - 1905年10月16日 |
尾崎 忠治(おざき ただはる、天保2年2月2日(1831年3月15日) - 1905年(明治38年)10月16日)は、日本の武士、政治家。正二位勲一等男爵。
生涯
[編集]維新後の明治3年(1870年)12月、刑部大解部に就任。翌年7月に刑部省が司法省と名を変え、司法大解部、同年10月に司法少判事、同8年(1875年)5月に長崎上等裁判所長心得、同17年(1884年)12月に東京控訴院長、同19年(1886年)8月には大審院長などの司法ポストを歴任した。 同23年(1890年)8月に枢密顧問官。同33年(1900年)5月、男爵を授爵。
同38年(1905年)に死去、享年75。青山霊園に葬られた。
栄典
[編集]- 位階
- 1886年(明治19年)7月8日 - 従四位[1]
- 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位[2]
- 1897年(明治30年)12月27日 - 従二位[3]
- 1905年(明治38年)10月16日 - 正二位[4]
- 勲章等
- 1888年(明治21年)5月29日 - 勲二等旭日重光章[5]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[6]
- 1891年(明治24年)3月30日 - 勲一等瑞宝章[7]
- 1898年(明治31年)12月28日 - 旭日大綬章[8]
- 1900年(明治33年)5月9日 - 男爵[9]
逸話
[編集]囲碁の腕が相当なものであったらしい。
親族
[編集]脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。
- ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
- ^ 『官報』第4349号「叙任及辞令」1897年12月28日。
- ^ 『官報』第6692号「叙任及辞令」1905年10月18日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
- ^ 『官報』第2322号「叙任及辞令」1891年3月31日。
- ^ 『官報』第4651号「叙任及辞令」1899年1月4日。
- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、379頁。
参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
公職 | ||
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先代 玉乃世履 |
高等法院裁判長 1887年 - 1890年 |
次代 (廃止) |
先代 西成度 東京控訴裁判所長 |
東京控訴院長 1886年 東京控訴裁判所長 1884年 - 1886年 |
次代 西成度 |
先代 松本暢 所長心得 |
大阪控訴裁判所長 1877年 - 1878年 所長心得 1876年 - 1877年 |
次代 小畑美稲 所長心得 |
先代 (新設) |
長崎上等裁判所長心得 1875年 - 1876年 |
次代 松本暢 所長 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 尾崎(忠治)家初代 1900年 - 1905年 |
次代 尾崎麟太郎 |