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尾崎義春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尾崎 義春
生誕 1890年4月20日
日本の旗 日本 北海道
死没 1973年9月19日
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1911年(明治44年) - 1947年(昭和22年)
最終階級 陸軍中将
指揮 第19師団
歩兵第17連隊長
秋田連隊区司令官
陸軍戸山学校長
出身校 陸軍士官学校
陸軍大学校
子女 義勇(長男) 義弘(次男)
親族 尾崎義典(孫)
除隊後 旭川市議会議員
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尾崎 義春(おざき よしはる、1890年明治23年〉4月20日 - 1973年昭和48年〉9月19日)は、日本陸軍軍人政治家。最終階級は陸軍中将北海道旭川市出身。

経歴

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農家の尾崎次郎の二男として生まれる。北海道庁立旭川中学校を卒業したのち、日本軍に入隊。 陸軍士官学校23期・ 陸軍大学校31期。関東軍に出仕。1928年の張作霖爆殺事件の際には河本大作大佐の部下として実行部隊を指揮する。その後、日中戦争支那事変)では独立混成第13旅団長として出動し、淮南新四軍と激戦を繰り広げた。

日米開戦後は第19師団長に親補され、北朝鮮からフィリピンへと転戦。リンガエン湾・プロム山の戦闘では圧倒的兵力を誇る米軍相手に善戦敢闘した。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[1]

戦後は、煎餅屋を営みながら旭川市議会議員を3期務め、五十嵐広三革新市政に対峙した。長男義勇は防衛庁官僚となり、次男義弘は航空自衛隊パイロットとなったが、1973年に飛行訓練中に搭乗機(F-4戦闘機)の突然の空中爆発により、殉職した[2]。義弘の息子は同じく航空自衛隊のパイロットとなった尾崎義典空将である[2]

年譜

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栄典

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位階
勲章

著作

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  • 『陸軍を動かした人々』八小堂書店、1960年。

脚注

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  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
  2. ^ a b 尾崎南西空司令官 親子2代のファントムライダー 父が殉職した空域で初めて年間飛行”. 朝雲新聞 (2021年1月28日). 2021年1月28日閲覧。
  3. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。