屋代忠正
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 文禄3年(1594年) |
死没 | 寛文2年4月24日(1662年6月10日) |
改名 | 甚三郎(幼名)、忠正 |
別名 | 志摩、越中(通称) |
戒名 | 雲輝院殿梁岩玄棟大居士 |
墓所 | 東京都文京区本駒込の吉祥寺 |
官位 | 従五位下越中守 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川忠長、家光、家綱 |
藩 | 駿河駿府藩御附家老、安房北条藩主 |
氏族 | 屋代氏 |
父母 | 屋代秀正、屋代政国娘 |
兄弟 |
忠正、室賀久大夫正室、称光院、 小尾重正正室、室賀正俊 |
妻 | 大関高増娘、松平重忠娘 |
子 | 桑山貞寄室、中山直次室、小宮山宣明室、松平某室、屋代忠興養女、安藤直利正室、忠興 |
屋代 忠正(やしろ ただまさ)は、江戸時代前期の大名。安房国北条藩初代藩主。官位は従五位下・越中守。
生涯
[編集]屋代秀正の長男として誕生。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で父と共に出陣する。慶長20年(1615年)3月、甲斐国巨摩郡に4000石の所領を与えられた。元和9年(1623年)、父の死去により家督とその遺領を継ぎ、自分の所領と合わせて1万石となったため、大名となった。その後、徳川忠長の御附家老となる。しかし寛永9年(1632年)10月、忠長が幕命により改易されると、連座して改易され、松平光長預かりの身となった。
寛永13年(1636年)9月、罪を許され、寛永15年(1638年)2月8日、安房国内に1万石を与えられて北条藩主となる。後に百人組頭となった。寛文2年(1662年)4月24日、69歳で死去し、跡を養嗣子の忠興が継いだ。
系譜
[編集]脚注
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