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屋代忠正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
屋代忠正
時代 江戸時代前期
生誕 文禄3年(1594年
死没 寛文2年4月24日1662年6月10日
改名 甚三郎(幼名)、忠正
別名 志摩、越中(通称)
戒名 雲輝院殿梁岩玄棟大居士
墓所 東京都文京区本駒込吉祥寺
官位 従五位下越中守
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川忠長家光家綱
駿河駿府藩御附家老安房北条藩
氏族 屋代氏
父母 屋代秀正屋代政国
兄弟 忠正室賀久大夫正室、称光院、
小尾重正正室、室賀正俊
大関高増松平重忠
桑山貞寄室、中山直次室、小宮山宣明室、松平某室、屋代忠興養女、安藤直利正室、忠興
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屋代 忠正(やしろ ただまさ)は、江戸時代前期の大名安房国北条藩初代藩主。官位従五位下越中守

生涯

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屋代秀正の長男として誕生。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で父と共に出陣する。慶長20年(1615年)3月、甲斐国巨摩郡に4000石の所領を与えられた。元和9年(1623年)、父の死去により家督とその遺領を継ぎ、自分の所領と合わせて1万石となったため、大名となった。その後、徳川忠長御附家老となる。しかし寛永9年(1632年)10月、忠長が幕命により改易されると、連座して改易され、松平光長預かりの身となった。

寛永13年(1636年)9月、罪を許され、寛永15年(1638年)2月8日、安房国内に1万石を与えられて北条藩主となる。後に百人組頭となった。寛文2年(1662年)4月24日、69歳で死去し、跡を養嗣子の忠興が継いだ。

系譜

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脚注

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