山口三郎 (陸軍軍人)
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山口 三郎 | |
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生誕 |
1884年7月24日 日本 福岡県 |
死没 | 1965年9月18日(81歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 |
1906年 - 1936年 1938年 - 1940年 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
山口 三郎(やまぐち さぶろう、1884年(明治17年)7月24日[1] - 1965年(昭和40年)9月18日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級[2]。
経歴
[編集]1884年(明治17年)に福岡県で生まれた[1]。陸軍士官学校第18期、陸軍大学校第26期卒業[1]。1930年(昭和5年)8月1日、陸軍歩兵大佐進級と同時に奈良連隊区司令官に着任した[2]。1932年(昭和7年)3月11日に歩兵第25連隊長(第7師団・歩兵第13旅団[3][4])に転じたが[2]、12月7日に第7師団司令部附となり[2]、1934年(昭和9年)3月に本郷連隊区司令官に就任した[2]。
1935年(昭和10年)8月1日に陸軍少将に進級し[2]、歩兵第22旅団長(第11師団[5][6])に着任[1]。1936年(昭和11年)8月1日に待命[1]、8月28日に予備役に編入された[1]。1938年(昭和13年)7月15日に召集され[1]、歩兵第118旅団長(第1軍・第109師団)に就任し[1]、日中戦争に出動[1]。山西軍の掃蕩や、五台作戦、潞安での掃蕩などを戦い大なる戦果を収め[1]、1940年(昭和15年)1月11日に召集解除となった[1]。1945年(昭和20年)3月9日に召集され、歩兵第56旅団長(第13軍・第60師団[7][8][9])に着任[10]。上海で連合軍の上陸に備える中で終戦を迎えた[9]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[11]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 福川 2001, 754頁.
- ^ a b c d e f 外山 1981, 234頁.
- ^ 外山・森松 1987, 384頁.
- ^ 外山・森松 1987, 385頁.
- ^ 外山・森松 1987, 392頁.
- ^ 外山・森松 1987, 393頁.
- ^ 外山・森松 1987, 1245頁.
- ^ 外山・森松 1987, 1246頁.
- ^ a b 外山・森松 1987, 1247頁.
- ^ 「第55号 昭和20年3月10日 陸軍異動通報」 アジア歴史資料センター Ref.C12120935900
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。
参考文献
[編集]- 外山操・森松俊夫 編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。