コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

山名持熙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山名持熙
時代 室町時代
生誕 不詳[1]
死没 永享9年(1437年)7月
官位 従五位下刑部少輔
主君 足利義持義量義教
氏族 山名氏
父母 父:山名時熙
兄弟 満時持熙持豊(宗全)
テンプレートを表示

山名 持熙(やまな もちひろ)は室町時代武将室町幕府侍所頭人を務めた山名時熙の次男。従五位下刑部少輔。兄に山名満時、弟に山名持豊(宗全)がいる。

生涯

[編集]

元服時に将軍足利義持と父・時熙より1字ずつ賜って持熙と名乗る[2]。同26年(1419年11月27日、従五位下刑部少輔に任じられる。翌年、家督後継者と目されていた兄・満時が没したため、この後、弟の持豊と家督を争うこととなる。持豊が父・時熙の側にいて行動することが多かったのに対して、持熙は対照的に将軍・義持の近習衆の一員として幕府に仕え、義持が没した際は、細川義之とともに納骨に従っている。新将軍・義教にも持熙は引き続き近習として仕え信任を得る。応永35年(1428年)、父・時熙が一時重篤な状態となり、後継者に持豊を指名しようとした際、義教は持熙を不憫に思い、三宝院満済に対して、管領畠山満家と相談し、時熙を翻意させるよう命じている[3]。この時は、時熙の容体が回復したため、後継者の決定は行われなかった。

しかし、永享3年(1431年)5月、持熙は義教の勘気を蒙り、家督相続の後ろ盾を失う[4]。義教は、時熙の心中を思うと持熙を簡単に処罰することは憚られるので、このまま出仕させるか追放するかは時熙の判断に任せるとした。これにより持熙は京都を追われたようである。翌年からは持熙に代わって持豊が垸飯に出仕、更に永享5年(1433年)8月には義教から持豊の家督相続を認められている。永享7年(1435年)7月に時熙が没すると、持熙・持豊兄弟の確執が噂され、年末には持熙が上洛するという風説が流れている。

永享9年(1437年7月11日大覚寺義昭大覚寺を出奔する事件が起きるが、この時、持熙が義昭に従っていたという噂が流れる[5]。また、義昭の叛乱に「山名宮内少輔」が味方しているという噂も流れた[6]。そして、噂通り持熙は挙兵し、7月25、26日に山名氏分国の一つ備後国へ乱入、国府城に立て籠もった[7]。しかし、持豊の軍勢に敗れ持熙は討死、7月30日に首級は京都へ送られた。

脚注

[編集]
  1. ^ 兄・満時の生誕年(応永3年(1396年))~弟・持豊の生誕年(応永11年(1404年))の間に生まれているのは確かである。
  2. ^ 弟の持豊が元服した応永20年(1413年)以前のことと考えられる。
  3. ^ 『満済准后日記』4月23日条。
  4. ^ 『満済准后日記』5月6日・24日条によれば、持熙の振舞いが義教の機嫌を損ねたというが、詳細は不明。
  5. ^ 『師郷記』7月12日条。
  6. ^ 看聞日記』7月23日条。なお、「山名宮内少輔」の素性については研究者により見解が分かれる。参考文献の著者のうち川岡は宮内少輔と持熙は同一人物ではないかとしているが(p.27)、山本は、宮内少輔は義昭とともに大和国に入ったので、備後国に向かった持熙とは別人としている(p.71-74)。
  7. ^ 薩戒記』8月1日条。

参考文献

[編集]