山尾古墳
山尾古墳 | |
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所在地 | 京都府綾部市坊口町(字山尾) |
位置 | 北緯35度23分19.40秒 東経135度14分27.65秒 / 北緯35.3887222度 東経135.2410139度座標: 北緯35度23分19.40秒 東経135度14分27.65秒 / 北緯35.3887222度 東経135.2410139度 |
形状 | 方墳 |
規模 | 一辺10m |
埋葬施設 | 無袖式横穴式石室 |
出土品 | 須恵器 |
築造時期 | 7世紀後半 |
史跡 | なし |
地図 |
山尾古墳(やまおこふん)は、京都府綾部市坊口町にある古墳。形状は方墳。史跡指定はされていない。
概要
[編集]京都府中部、岳山の山塊から南に延びる尾根の南斜面(標高約125メートル)において、斜面をL字に掘削・整地して築造された古墳である。1994年度(平成6年度)に京都縦貫自動車道建設に伴う発掘調査が実施されたのち、工事で大部分が失われている。
墳形は方形。墳丘は2段築成で、墳丘の築造にあたっては唐大尺(約29.7センチメートル)の使用が推測される[1]。版築は認められていない。墳丘1段目は東西約9メートル・南北約9.7-9.9メートル、2段目は東西7.6メートルを測り、前面(南面)には列石が巡らされる[2]。墳丘南側には列石を伴う2段のコ字状テラスを有し、墳丘と合わせて計4重の列石が配される。テラスの第1列石は東西推定約21.4メートル、第2列石は東西約13.8メートルを測る[2]。テラス状遺構を含めた古墳全体の高さは6メートル[2]。埋葬施設は無袖式の横穴式石室で、南方向に開口した。石室内は盗掘に遭っており、調査では若干の須恵器のみが検出されている。
築造時期は、古墳時代終末期の7世紀後半頃と推定される[2]。墳丘前面に2段のテラス状方形壇を付す墳丘形態は、段ノ塚古墳(奈良県桜井市、舒明天皇陵)に代表される、終末期古墳に特徴的な段ノ塚式として注目される[3]。また綾部市内の古墳としては最後に築造に位置づけられ、市内の綾中遺跡群(何鹿郡衙か)・綾中廃寺跡の存在を考え合わせて、何鹿郡の開発を主導した新興氏族(特に刑部氏)が被葬者像として想定される[3]。
埋葬施設
[編集]埋葬施設としては無袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口した。石室の規模は次の通り[1]。
- 石室全長:6.23メートル
- 玄室:長さ5.43メートル、幅0.93メートル、高さ約1.2メートル
- 羨道:長さ0.8メートル
石室の石材は、墳丘の列石と同様の砂岩・礫岩などの堆積岩で、自然石の乱石積みによって構築される。天井石は本来6石程度と見られるが、調査時点では3石が遺存した。石室内の床面には緑色系蛇紋岩による礫床が認められる[3][2]。
石室内は盗掘に遭っており、調査では須恵器高坏1(飛鳥III型式)・甕片のみが検出されている[1]。
関連施設
[編集]- 綾部市資料館(綾部市里町久田) - 山尾古墳の復元模型を展示。
脚注
[編集]参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 「山尾古墳」『京都府遺跡調査概報 第67冊』京都府埋蔵文化財調査研究センター、1995年 。 - リンクは公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター。
- 高野陽子「各地の古墳と被葬者像 京都府山尾古墳」『季刊考古学 -特集 後・終末期古墳の被葬者像-』第68号、雄山閣、1999年、65-66頁。
- 三好博喜「山尾古墳」『続 日本古墳大辞典』東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991。
- 「山尾古墳」『京都府の史跡・遺跡ハンドブック 第4集』京都府教育委員会、2022年。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 高野陽子「終末期古墳の墳丘形態に関する一考察 -山尾古墳の被葬者をめぐって-」『考古学に学ぶ 遺構と遺物(同志社大学考古学シリーズ7)』同志社大学考古学シリーズ刊行会、1999年。
外部リンク
[編集]- 山尾古墳 - 公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター