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山尾古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山尾古墳
所在地 京都府綾部市坊口町(字山尾)
位置 北緯35度23分19.40秒 東経135度14分27.65秒 / 北緯35.3887222度 東経135.2410139度 / 35.3887222; 135.2410139座標: 北緯35度23分19.40秒 東経135度14分27.65秒 / 北緯35.3887222度 東経135.2410139度 / 35.3887222; 135.2410139
形状 方墳
規模 一辺10m
埋葬施設 無袖式横穴式石室
出土品 須恵器
築造時期 7世紀後半
史跡 なし
地図
山尾古墳の位置(京都府内)
山尾古墳
山尾古墳
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山尾古墳(やまおこふん)は、京都府綾部市坊口町にある古墳。形状は方墳。史跡指定はされていない。

概要

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京都府中部、岳山の山塊から南に延びる尾根の南斜面(標高約125メートル)において、斜面をL字に掘削・整地して築造された古墳である。1994年度(平成6年度)に京都縦貫自動車道建設に伴う発掘調査が実施されたのち、工事で大部分が失われている。

墳形は方形。墳丘は2段築成で、墳丘の築造にあたっては唐大尺(約29.7センチメートル)の使用が推測される[1]。版築は認められていない。墳丘1段目は東西約9メートル・南北約9.7-9.9メートル、2段目は東西7.6メートルを測り、前面(南面)には列石が巡らされる[2]。墳丘南側には列石を伴う2段のコ字状テラスを有し、墳丘と合わせて計4重の列石が配される。テラスの第1列石は東西推定約21.4メートル、第2列石は東西約13.8メートルを測る[2]。テラス状遺構を含めた古墳全体の高さは6メートル[2]。埋葬施設は無袖式の横穴式石室で、南方向に開口した。石室内は盗掘に遭っており、調査では若干の須恵器のみが検出されている。

築造時期は、古墳時代終末期7世紀後半頃と推定される[2]。墳丘前面に2段のテラス状方形壇を付す墳丘形態は、段ノ塚古墳奈良県桜井市舒明天皇陵)に代表される、終末期古墳に特徴的な段ノ塚式として注目される[3]。また綾部市内の古墳としては最後に築造に位置づけられ、市内の綾中遺跡群(何鹿郡衙か)・綾中廃寺跡の存在を考え合わせて、何鹿郡の開発を主導した新興氏族(特に刑部氏)が被葬者像として想定される[3]

埋葬施設

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埋葬施設としては無袖式横穴式石室が構築されており、南方向に開口した。石室の規模は次の通り[1]

  • 石室全長:6.23メートル
  • 玄室:長さ5.43メートル、幅0.93メートル、高さ約1.2メートル
  • 羨道:長さ0.8メートル

石室の石材は、墳丘の列石と同様の砂岩・礫岩などの堆積岩で、自然石の乱石積みによって構築される。天井石は本来6石程度と見られるが、調査時点では3石が遺存した。石室内の床面には緑色系蛇紋岩による礫床が認められる[3][2]

石室内は盗掘に遭っており、調査では須恵器高坏1(飛鳥III型式)・甕片のみが検出されている[1]

関連施設

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  • 綾部市資料館(綾部市里町久田) - 山尾古墳の復元模型を展示。

脚注

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参考文献

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(記事執筆に使用した文献)

  • 山尾古墳」『京都府遺跡調査概報 第67冊』京都府埋蔵文化財調査研究センター、1995年http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/gaihou/51-70/G067web.pdf  - リンクは公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター。
  • 高野陽子「各地の古墳と被葬者像 京都府山尾古墳」『季刊考古学 -特集 後・終末期古墳の被葬者像-』第68号、雄山閣、1999年、65-66頁。 
  • 三好博喜「山尾古墳」『続 日本古墳大辞典東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991 
  • 「山尾古墳」『京都府の史跡・遺跡ハンドブック 第4集』京都府教育委員会、2022年。 

関連文献

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(記事執筆に使用していない関連文献)

  • 高野陽子「終末期古墳の墳丘形態に関する一考察 -山尾古墳の被葬者をめぐって-」『考古学に学ぶ 遺構と遺物(同志社大学考古学シリーズ7)』同志社大学考古学シリーズ刊行会、1999年。 

外部リンク

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  • 山尾古墳 - 公益財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター