山岡景佐
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 享禄4年(1531年) |
死没 | 天正17年(1589年)1月 |
改名 | 景佐→宗入(法号) |
別名 | 景祐、景成 |
墓所 | 京都府京都市東山の知恩寺養源院 |
官位 | 対馬守 |
主君 | 六角氏→織田信長→羽柴秀吉→徳川氏 |
氏族 | 山岡氏 |
父母 | 父:山岡景之 |
兄弟 | 景隆、景佐、景猶、景友、景冬、景光、景重、景国、暹実 |
妻 | 山口盛隆娘 |
子 |
景長、景忠、 酒井忠次養女(本郷頼泰室→曽我尚佑室) |
山岡 景佐(やまおか かげすけ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
生涯
[編集]享禄4年(1531年)、山岡景之の次男として誕生。当初は六角氏に仕えたが、永禄11年(1568年)頃に織田信長が上洛を果たすと降伏。弟・景猶と共に信長配下の明智光秀に属し、元亀3年(1572年)降伏した松永久秀に代わり多聞山城の城番や、天正4年(1576年)4月の本願寺攻めに参加した。
光秀の丹波国平定には参加しておらず、この頃は信長や佐久間信盛の下で茶会に参加した記録(『宗及記』)が多く見られることから、兄・景隆と同じく佐久間信盛の与力に属したか、信長の直臣となったと考えられる。以後、天正7年(1579年)の有岡城攻め、天正9年(1581年)の伊賀国攻めなどに従軍。天正10年(1582年)、信長最後の上洛の際には蒲生賢秀と共に、安土城二の丸の番衆を務めた。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去すると、光秀からの勧誘を受けるが、兄・景隆と共に光秀に対し抵抗姿勢を示す。また徳川家康の伊賀越えを助けたともいわれる。以後、羽柴秀吉に属して伊勢国へ出陣したが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い後、柴田勝家に内応したとの嫌疑をかけられ、兄と共に改易された。その後、徳川氏の家臣となった。
天正17年(1589年)1月に駿府にて死去。享年59[1]。