山岡景宗
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文8年(1539年)[1] |
死没 | 慶長4年(1599年)1月[1]? |
改名 | 孫太郎(幼名)→景宗→暹雅(法号) |
別名 | 景益、景昌、景広 |
官位 | 修理亮 |
主君 | 織田信長→豊臣秀吉→秀頼(→徳川家康→秀忠) |
氏族 | 山岡氏 |
父母 |
父:山岡景隆、 母:水野重久娘・山岡宗栄(異説あり) |
兄弟 |
三木氏室、山岡景政室、景宗、藤九郎、河村奥惣右衛門室、景好、景永[2]、 松吉対馬守室(後今井氏室)、権九郎、多羅尾久蔵室(後氏家元政室)、 寺倉氏[3]室、 渡辺助重室(後長井貞真室)、氏家行継室 養兄弟:景興、景以 |
妻 | 丸岡民部少輔娘 |
子 |
景俊、暹雅、可児長景、上林紹喜室、 松尾甚六郎室、景通 |
山岡 景宗(やまおか かげむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
略歴
[編集]当初は父と共に信長に仕え、天正4年(1576年)には松永久秀と共に石山本願寺攻めに参加している。信長の死後、父・景隆は羽柴秀吉(豊臣秀吉)と敵対して改易され、まもなく死去したが、景宗は秀吉から許されて1450石の所領を与えられ、馬廻の1人に列せられた。朝鮮出兵では秀吉に従い、肥前国名護屋城に在陣した。
秀吉の死後はその子・秀頼に仕え、大坂の陣でも豊臣方として戦ったが、戦後は罪を許されて徳川家康・秀忠らに仕えて本領を安堵されている。ただし『断家譜』では慶長4年(1599年)1月に61歳で死去としている。