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山崎重暉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山崎 重暉
海兵入校時
生誕 1893年1月21日
日本の旗 日本 高知県
死没 (1980-12-28) 1980年12月28日(87歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1914 - 1945
最終階級 海軍中将
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山崎 重暉(やまざき しげあき、1893年1月21日 - 1980年12月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将

経歴

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警察署長・山崎重光の長男として生れる。海南中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校41期)を卒業。席次は入校時120名中16番、卒業時118名中20番。翌年12月、海軍少尉任官。1920年11月、海軍水雷学校高等科を卒業し、海軍潜水学校教官、「第13潜水艦艦長、第2潜水戦隊参謀などを歴任。1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。第一次世界大戦末期に第二特務艦隊に配属となり、戦利潜水艦の回航に携わる[1]

呂号第18潜水艦」・「呂号第67潜水艦」の各艦長、第1潜水戦隊参謀、潜水学校教官、海大教官などを歴任。1934年11月、第14潜水隊司令となり、第30潜水隊司令、海大教官、大本営報道部第1課長、「八雲」艦長、上海方面特別根拠地隊参謀長を勤めた。1940年11月、海軍少将に進級。

太平洋戦争を第2潜水戦隊司令官として迎えた。潜水艦作戦の不振を受けて軍令部出仕として原因の究明にあたり、潜水艦の使用方法に誤りがあることを指摘した。第1潜水戦隊司令官、潜水学校校長などを歴任し、1944年5月、海軍中将となった。以後、海軍潜水艦部長を経て、特兵部長として終戦を迎え、1945年9月、予備役に編入された。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[2]

著書

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  • 『日米五大海戦』図書出版社
  • 『回想の帝国海軍』図書出版社、1977年。

栄典

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勲章

出典

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  1. ^ 『回想の帝国海軍』第二章
  2. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」97頁。
  3. ^ 『官報』第4506号「叙任及辞令」1942年1月19日。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。