呂号第六十七潜水艦
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艦歴 | |
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計画 | 大正12年度艦艇補充計画 |
起工 | 1925年3月5日 |
進水 | 1926年3月18日 |
就役 | 1926年12月15日 |
除籍 | 1945年7月20日 |
その後 | 戦後、佐世保で桟橋として使用後に解体 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:988トン 常備:1,060.3トン 水中:1,301トン |
全長 | 76.20m |
全幅 | 7.38m |
吃水 | 3.96m |
機関 | ヴィッカース式ディーゼル2基2軸 水上:2,400馬力 水中:1,600馬力 |
速力 | 水上:15.7kt 水中:8.6kt |
航続距離 | 水上:10ktで5,500海里 水中:4ktで80海里[1] |
燃料 | 重油 |
乗員 | 48名 |
兵装 | 40口径8cm単装砲1門 53cm魚雷発射管 艦首6門 魚雷12本 |
備考 | 安全潜航深度:60m |
呂号第六十七潜水艦(ろごうだいろくじゅうななせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂六十型潜水艦(L4型)の8番艦。
艦歴
[編集]- 1925年(大正14年)3月5日 - 三菱神戸造船所で起工。
- 1926年(大正15年)3月18日 - 進水
- 1927年(昭和2年)1月15日 - 第一艦隊第1潜水戦隊に編入[2]。
- 1934年(昭和9年)2月21日 - 予備艦となる[2]。
- 1936年(昭和11年)12月1日 - 予備艦となる[2]。
- 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を呂六十型に改正[3]。
- 1940年(昭和15年)7月26日 - 予備艦となる[2]。
- 1941年(昭和16年)12月5日 - 第7潜水戦隊第27潜水隊所属として、クェゼリンを出航。ウェーク島攻略作戦に参戦のためウェーク島方面の配備に就く[4]。
- 12月24日 - クェゼリンを出航するが、故障のため帰還[4]。
- 1942年(昭和17年)1月11日 - トラック着[4]。
- 1月16日 - トラックを出航。ラバウル攻略戦に加わりセント・ジョージ岬南方に配備[4]。
- 1月29日 - トラック着[4]。
- 2月10日 - 第26潜水隊に編入[4]。
- 2月18日 - トラック出航。マーシャル諸島へ向かい、28日、ポナペ着[4]。
- 3月3日 - ポナペを出航。マキン島、ヤルート、サイパン方面で活動[4]。
- 4月2日 - 佐世保着[4]。
- 7月14日 - 第5艦隊に編入[4]。
- 9月10日 - 北方に派遣となり佐世保を出港[4]。
- 9月26日 - キスカ島に到着。同日、空襲により両舷モーター、潜望鏡が損傷。修理のため帰還[4]。
- 10月12日 - 横須賀着[4]。
- 11月15日 - 呉鎮守府部隊に編入。練習潜水艦となる[4]。
- 1944年(昭和19年)8月15日 - 呉防備戦隊に編入[4]。
- 1945年(昭和20年)3月19日 - 呉で入渠中に空襲を受け13名戦死[4]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』467頁による。階級は就任時のもの。
艤装員長
[編集]- 山崎重暉 少佐:1926年8月20日 - 1926年12月15日
艦長
[編集]- 山崎重暉 少佐:1926年12月15日 - 1927年11月15日
- 三戸寿 少佐:1927年12月1日 - 1928年12月15日
- 林清亮 大尉:1928年12月15日 - 1929年11月5日[6]
- 宮崎武治 大尉:1929年11月5日 - 1930年4月1日
- 遠藤敬勇 大尉:1930年4月1日 - 1931年4月1日
- 都築登 大尉:1931年4月1日 - 1931年12月1日
- 岡田有作 少佐:1931年12月1日 - 1933年3月15日[7]
- 遠藤敬勇 少佐:1933年3月15日 - 1934年2月21日[8]
- (兼)浜野元一 少佐:1934年2月21日[8] - 1934年7月16日[9]
- 清水太郎 少佐:1934年7月16日 - 1934年10月22日
- (兼)都築登 少佐:1934年10月22日[10] - 1934年11月15日[11]
- 大畑正 少佐:1934年11月15日 - 1936年2月15日
- 広川隆 大尉:1936年2月15日 - 1937年11月15日[12]
- 市川旦 大尉:1937年11月15日[12] -
- (兼)上野利武 大尉:1938年4月19日[13] - 1938年6月10日[14]
- (兼)河野昌道 大尉:1938年6月10日[14] - 1938年7月30日[15]
- (兼)矢島安雄 少佐:1938年7月30日[15] - 1938年12月15日[16]
- (兼)小川綱嘉 少佐:1938年12月15日[16] - 1939年3月20日[17]
- (兼)宇野亀雄 少佐:1939年3月20日[17] - 1939年9月1日[18]
- 成沢千直 少佐:1939年9月1日 - 1939年11月15日[19]
- 大橋勝夫 少佐:1939年11月15日 - 1940年3月20日[20]
- 渡辺勝次 少佐:1940年3月20日 - 1940年7月26日[21]
- (兼)小比賀勝 少佐:1940年7月26日[21] - 1940年10月30日[22]
- 吉留善之助 少佐:1940年10月30日[22] - 1941年10月31日[23]
- 井元正之 少佐:1941年10月31日 -
- 山口一生 大尉:1942年5月30日 -
- 中山伝七 大尉:1942年8月26日 -
- 江波戸和郎 大尉:1943年3月16日 -
脚注
[編集]- ^ 『艦長たちの軍艦史』による。
- ^ a b c d e 『艦長たちの軍艦史』467頁。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』150頁。
- ^ 『日本海軍史』第7巻、372頁では、「伊予灘で米軍により処分」とされている。
- ^ 『官報』第857号、昭和4年11月6日。
- ^ 『官報』第1861号、昭和8年3月15日。
- ^ a b 『官報』第2141号、昭和9年2月22日。
- ^ 『官報』第2262号、昭和9年7月17日。
- ^ 『官報』第2344号、昭和9年10月23日。
- ^ 『官報』第2364号、昭和9年11月16日。
- ^ a b 「海軍辞令公報 号外 第91号 昭和12年11月15日付」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500
- ^ 「昭和13年 海軍辞令公報 完(部内限)4月」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073700
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第193号 昭和13年6月11日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073900
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第218号 昭和13年7月30日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074100
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第316号 昭和14年3月21日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075500
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第375号 昭和14年9月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076300
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第402号 昭和14年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第453号 昭和15年3月20日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第508号 昭和15年7月26日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072078400
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第549号 昭和15年10月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079200
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第737号 昭和16年10月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082900
参考文献
[編集]- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9