呂号第六十潜水艦
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艦歴 | |
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計画 | 大正7年度計画(八六艦隊案) |
起工 | 1921年12月5日 |
進水 | 1922年12月20日 |
就役 | 1923年9月17日 |
その後 | 1941年12月31日海没処分 |
除籍 | 1942年1月10日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:988トン 常備:1,060.3トン 水中:1,301トン |
全長 | 76.20m |
全幅 | 7.38m |
吃水 | 3.96m |
機関 | ヴィッカース式ディーゼル2基2軸 水上:2,400馬力 水中:1,600馬力 |
速力 | 水上:15.7kt 水中:8.6kt |
航続距離 | 水上:10ktで5,500海里 水中:4ktで80海里[1] |
燃料 | 重油 |
乗員 | 48名 |
兵装 | 40口径8cm単装砲1門 53cm魚雷発射管 艦首6門 魚雷12本 |
備考 | 安全潜航深度:60m |
呂号第六十潜水艦(ろごうだいろくじゅうせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂六十型潜水艦(L4型)の1番艦。竣工時の艦名は第五十九潜水艦。
艦歴
[編集]- 1921年(大正10年)12月5日 - 三菱神戸造船所で起工。
- 1922年(大正11年)12月20日 - 進水
- 1923年(大正12年)9月17日 - 竣工。第五十九潜水艦と命名。
- 1924年(大正13年)2月9日 - 第72潜水艦と共に第26潜水隊を編成[2]。
- 11月1日 - 呂号第六十潜水艦に改名。
- 1928年(昭和3年)2月10日 - 予備艦となる[2]。
- 1934年(昭和9年)6月1日 - 予備艦、佐世保鎮守府特別保存艦となる[2]。
- 1938年(昭和13年)6月1日 - 艦型名を呂六十型に改正[3]。
- 1941年(昭和16年)12月8日 - 第七潜水戦隊(司令官大西新蔵少将)、第26潜水隊所属として、クェゼリンで待機[4]
12月18日にクェゼリンを出航し、第二次ウェーク島攻略作戦に参戦[4][5]。12月21日、ウェーク島上陸地点偵察中に敵機の攻撃により損傷し、潜航困難となった[6]。 12月29日午前2時、クェゼリン環礁北端(ルオット島南東方向14浬地点で座礁。艦位誤差、疲労、潮流および天候による)[5]。船体を損傷[7]。浸水と塩素ガス発生により乗組員は艦橋に退避[5]。 潜水母艦「迅鯨」(第七潜水戦隊旗艦)が救難に向かい、同日13時に現場に到着[6]。しかし離礁不可能として救難作業は12月31日12時に打ち切られ、その後「呂60」は船体を切断し海没処分となった[6]。藤森艦長以下乗員66名全員は「迅鯨」に移乗[2][7]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』461-462頁による。階級は就任時のもの。
艤装員長
[編集]- 横山菅雄 少佐:1923年3月10日 - 1923年9月17日[8]
艦長
[編集]- (兼)横山菅雄 少佐:1923年3月10日 - 1923年9月17日[8]
- 横山菅雄 少佐:1923年9月17日[8] - 1923年10月15日[9]
- (心得)平岡粂一 大尉:1923年10月15日 - 1923年12月1日
- 平岡粂一 少佐:1923年12月1日 - 1924年10月20日
- 八代祐吉 大尉:1924年10月20日 - 1925年7月21日
- 三輪茂義 少佐:1925年7月21日 - 1925年12月1日
- 大橋龍男 少佐:1925年12月1日 - 1926年8月25日
- 金桝義夫 少佐:1926年8月25日 - 1928年2月10日
- (兼)今和泉喜次郎 大尉:1928年2月10日[10] - 1928年9月20日[11]
- 鶴岡信道 少佐:1928年9月20日 - 1929年9月5日
- 竹崎馨 大尉:1929年9月5日 - 1931年12月1日
- 植村庭三 少佐:1931年12月1日 - 1932年3月26日[12]
- (兼)鳥居威美 少佐:1932年3月26日[12] - 1932年4月18日[13]
- 堤繁春 大尉:1932年4月18日[13] - 1933年9月1日[14]
- 小野良二郎 少佐:1933年9月1日 - 1934年6月1日[15]
- 七字恒雄 少佐:1934年6月1日[15] - 1934年12月15日[16]
- 殿塚謹三 大尉:1934年12月15日[16] - 1935年11月15日[17]
- 伊豆寿市 少佐:1935年11月15日[17] - 1936年2月15日[18]
- 戸上一郎 大尉:1936年2月15日[18] - 1936年12月1日[19]
- 原田毫衛 少佐:1938年12月15日[20] - 1939年7月27日[21]
- 田岡清 大尉:1939年7月27日[21] - 1939年9月1日[22]
- 宇野乙二 少佐:1940年10月15日 - 1941年7月15日[23]
- 藤森康男 少佐:1941年7月15日 - 1942年1月15日[24]
脚注
[編集]- ^ 『艦長たちの軍艦史』による。
- ^ a b c d 『艦長たちの軍艦史』462頁。
- ^ 昭和13年6月1日付、内令第421号。
- ^ a b 『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』148頁。
- ^ a b c #海軍生活放談483頁『二、呂六〇号の坐礁』
- ^ a b c 戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで、221ページ
- ^ a b 『日本海軍史』第7巻、371頁。
- ^ a b c 『官報』第3332号、大正12年9月29日。
- ^ 『官報』第3347号、大正12年10月18日。
- ^ 『官報』第335号、昭和3年2月13日。
- ^ 『官報』第523号(昭和3年9月21日)では「第六十一」と記載されたが、『官報』第524号(昭和3年9月22日)で「第六十」と訂正された。
- ^ a b 『官報』第1570号、昭和7年3月28日。
- ^ a b 『官報』第1589号、昭和7年4月19日。
- ^ 『官報』第2003号、昭和8年9月2日。
- ^ a b 『官報』第2224号、昭和9年6月2日。
- ^ a b 『官報』第2389号、昭和9年12月17日。
- ^ a b 『官報』第2663号、昭和10年11月16日。
- ^ a b 『官報』第2735号、昭和11年2月17日。
- ^ 『官報』第2976号、昭和11年12月2日。
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)号外 第273号 昭和13年12月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ a b 「海軍辞令公報(部内限)第363号 昭和14年7月29日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076100
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第375号 昭和14年9月1日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076300
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第673号 昭和16年7月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第794号 昭和17年1月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072083800
参考文献
[編集]- 大西新蔵『海軍生活放談 日記と共に六十五年』原書房、1979年6月。ISBN 9784562008902。 大西は太平洋戦争開戦時の第七潜水戦隊司令官
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。
- 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第38巻 中部太平洋方面海軍作戦<1>昭和十七年五月まで』朝雲新聞社
関連項目
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