呂号第四潜水艦
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艦歴 | |
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計画 | 大正6年度計画[1] |
起工 | 1919年12月22日[1] |
進水 | 1921年6月22日[1] |
就役 | 1922年5月5日[1] |
除籍 | 1932年4月1日[1] |
その後 | 1933年12月15日雑役船編入、橋船に指定、公称第3021号と改名[2] 終戦時、黄埔江上海港務部前の桟橋として使用中[2] |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:689トン 常備:740トン 水中:1,047トン |
全長 | 65.58m |
全幅 | 6.07m |
吃水 | 4.04m |
機関 | フィアット式ディーゼル2基2軸 水上:2,600馬力 水中:1,200馬力 |
速力 | 水上:14.27kt 水中:8.01kt |
航続距離 | 水上:10ktで3,500海里 水中:4ktで75海里 |
燃料 | 重油 |
乗員 | 43名 |
兵装 | 機銃1挺 45cm魚雷発射管 艦首3門、艦尾2門 魚雷8本 |
備考 | 安全潜航深度:30.5m |
呂号第四潜水艦(ろごうだいよんせんすいかん)は、日本海軍の潜水艦。呂三型潜水艦(F2型)の2番艦。竣工時の艦名は第三十二潜水艦。
艦歴
[編集]1919年(大正8年)12月22日、神戸川崎造船所で起工。1921年(大正10年)6月22日進水。1922年(大正11年)5月5日竣工。竣工時の艦名は第三十二潜水艦、二等潜水艦に類別[1]。1924年(大正13年)11月1日、呂号第四潜水艦に改称[1]。1932年(昭和7年)4月1日に除籍。
1933年(昭和8年)12月15日、雑役船に編入され、橋船となり公称第3021号と改名。終戦時、黄埔江上海港務部前の桟橋として使用していた。
呂一型潜水艦よりも速力が3ノット低下し、艦隊に随伴する能力がないと判断され、鎮守府の警備艦として使用された[3]。
歴代艦長
[編集]※艦長等は『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
艤装員長
[編集]艦長
[編集]- (心得)高塚省吾 大尉:1922年5月5日[4] - 1923年12月1日
- (心得)三輪茂義 大尉:不詳 - 1922年12月1日[5]
- (心得)森野草六郎 大尉:1923年12月1日 - 1924年5月30日
- (心得)大橋龍男 大尉:1924年5月30日 - 1925年12月1日
- 林清亮 大尉:1925年12月1日[6] - 1927年1月10日[7]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『写真日本海軍全艦艇史 Fukui Shizuo Collection』資料編、KKベストセラーズ、1994年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 勝目純也『日本海軍の潜水艦 - その系譜と戦歴全記録』大日本絵画、2010年。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集20巻』潜水艦伊号・呂号・波号・特殊潜航艇他、光人社、1998年。