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山本市英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山本市英
やまもと いちえい
生年月日 1891年1月1日
出生地 日本の旗 日本 石川県
没年月日 (1969-09-25) 1969年9月25日(78歳没)
死没地 日本の旗 日本 神奈川県平塚市
出身校 早稲田大学専門部政治経済科卒業
前職 小樽商業会議所総務課長
所属政党 (立憲民政党→)
立憲政友会

選挙区 北海道第4選挙区
当選回数 1回
在任期間 1932年2月20日 - 1936年1月21日

当選回数 2回
在任期間 1947年 - 1954年9月11日

当選回数 2回
在任期間 1924年 - 1932年
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山本 市英(やまもと いちえい、1891年明治24年)1月1日[1] - 1969年昭和44年)9月25日[2])は、日本政治家実業家北海道会議員衆議院議員北海道岩見沢市長(1947年-1954年)。

経歴

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石川県出身。空知農学校卒。1915年大正4年)早稲田大学専門部政治経済科卒業[2]小樽新聞(後の北海道新聞)に入社し政治経済部記者となり、同社岩見沢支局長を務めた[2]。その後、小樽商業会議所総務課長に就任[2]1924年(大正13年)第8期北海道会議員に当選、2期8年務め、北海道会参事会員にも在任。その後1933年第18回衆議院議員総選挙にて北海道第4区から当選。1期務め、立憲政友会に所属。1936年第19回から1942年第21回総選挙まで立候補するもいずれも落選。

第19回落選後に、市長当選に至るまでの間、大正製薬化学監査役北都製薬取締役社長岩見沢バス社長鳳組社長、北斗組社長などを歴任した[2]

1947年第1回統一地方選挙において初の公選市長として岩見沢市長に就任。1951年第2回統一地方選挙では3候補による市長争い。開票の結果山本と能勢実による決選投票(岩見沢市長選では戦後唯一)になり、結果575票差で山本が再選を果たした。1954年4月に市政調査特別委員会が設置され、山本の財政逼迫化の責任が問われ9月11日辞任。市議会では「辞任理由が薄弱」「なぜ突然の辞任なのか」と批判された。直後の同年10月の市長選に再度立候補するも、川村芳次に破れる。

神奈川県平塚市にて78歳で没。岩見沢市明了寺で市民葬が行われた。

主な業績

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  •  鳩が丘に公営住宅を建設(1949年)
  •  市立病院新築(1950年)鉄筋ブロック造3階建、1億7700万円
  •  市営葬儀の開設(1950-1956年)
  •  保安隊の誘致(1953年設置)
  •  市立窯業研究所の設置(1953年-55年)こぶし焼きの端緒
  •  労災病院の誘致(退任後の1955年開院)
  •  都市計画用途地域の決定、街路下水道整備計画の決定

受賞歴

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脚注

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  1. ^ 衆議院『第六十八回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1935年、34頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』691頁。

参考文献

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  • 岩見澤百年史編纂委員会編『岩見澤百年史』(岩見沢市、1985年)
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。


先代
川村芳次
岩見沢市長
第3代:1947 - 1954
次代
川村芳次