山本福松
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山本 福松(やまもと ふくまつ、生年不明 - 1908年〈明治41年〉)は、明治時代の日本の人形師、纏・神輿職人。生人形で知られる。没後に後を継いで二代目を名乗った子息についても触れる。
来歴
[編集]江戸時代後期に、町人の山本八十八の長男として江戸浅草近くの千束で生まれる。後に浅草の馬道に住む。
1878年(明治11年)、浅草において松本喜三郎とともに、生人形の合同興行をおこなった。明治20年代から明治30年代(1887年 - 1906年)にかけては、千駄木団子坂の植木屋(植梅、植惣、植重、植半など)で菊人形の制作に携わった。親族で、山車作りの名人として知られた「山車鉄」こと山本鉄五郎とともに、各地の山車人形を制作した。墓所は台東区元浅草の吉祥院。
福松の人形は尖った耳に特徴がある。
二代目
[編集]1908年の死去後は、息子である二代目山本福松(1887年〈明治10年〉- 1961年〈昭和36年〉)が継いだ。明治40年代(1907年 - 1912年)の団子坂や名古屋黄花園の菊人形、昭和初期の浅草花やしきの生人形、各地の山車人形などを手がけた。
江戸川乱歩は随筆「人形」の中で、この二代目福松に人形について聞いたことを書き記しており、乱歩が『蜘蛛男』の中で想像して描いた人形工場について、作品を読んだ二代目福松は「あれは私の家をモデルにしたのではありませんか」と話していたという[1]。