山本良航
山本 良航(やまもと りょうこう、1877年(明治10年)8月2日 - 1940年(昭和15年)8月27日)は、明治時代から昭和時代にかけての天台宗僧。大僧都。但馬観音寺の第17世住職[1]。前名は田畑文太郎。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]1877年(明治10年)8月2日、田畑佐七の三男として兵庫県二方郡釜屋村19番屋敷[2]に生れる。生母は太田豊三郎の二女・
幼少より利発で学問の志高く、地元の寺子屋に通い推薦を受けて、仏門の修行を積む[3]。
1893年(明治26年)2月25日、父・佐七が死去するが、出家して仏道を成就したいとの志をやみ難く、母に手紙を送る。同年12月8日、願済廃嫡の届出を出し、12月23日、兵庫県気多郡三方村ノ内 観音寺村の観音寺住職・山本良仙の仏弟子となり養子入籍[3]。法兄には二方郡西浜村ノ内 居組村出身の良玄がいた。観音寺は、山号は
出家
[編集]1894年(明治27年)7月2日、出家して「良航」と名を改める[3]。
文太郎が出家したことにより、文太郎の姉・菊子[6]が、婿養子に迎えることとなったが、折しも日清戦争が始まり、その終結後にあたる、1896年(明治29年)3月31日、鳥取県鳥取市本町の山本菊次郎の三男・好造を婿に入れて田畑家の跡目を相続させることになった[7]。
郷土の復興
[編集]1902年(明治35年)1月6日、観音寺・別当坊第17世住職となり、寺子屋を開いて学問を奨励する[1]。
1907年(明治40年)3月5日、兵庫県養父郡浅野村・橋本治右衛門の三女・秀子を娶る。この秀子は、「かすみ織」の名手で、橋本家に伝わってきた秘伝の織り方に改良を加え、これを観音寺村の人々に伝授することにより、農閑期や冬の女性の内職を助け、これらの特殊な編み方をした織物が評判となって、遠方から買い付けに来る人々も出た[3]。
地域の復興をはじめ、年来の功が認められ、のち本山より大僧都の位を授けられた[3]。
1940年(昭和15年)8月2日入寂。享年64歳。墓は観音寺歴代住職塋域にある[8]。
生家
[編集]田畑家
[編集]山本菊次郎 | 山本常造 | 田畑佐七 | 田畑義夫 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田畑好造 | 田畑亀吉 | 田畑二郎 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田畑鶴治 | 田畑富重 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田畑菊子 | 田畑由紀子 | 田畑菊恵 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
男子 | 西村駒子 | 田畑佐造 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田畑久三郎 | 女子 | 男子 | 田畑徳松 | 田畑実穂 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
田畑寿恵子 | 田畑鮫子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
西本榮三郎 | 田畑佐七 | 女子 | 山本良雄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宮脇松子 | 山本良英 | 山本良年 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
太田豊三郎 | 田畑曾乃 | 山本良航 | 山本良子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
髙岡久子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
橋本治右衛門 | 山本秀子 | 山本文子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
補註
[編集]参考文献
[編集]- 『但馬の名僧・山本良航傳』
- 『兵庫県 郷土資料事典』人文社、1997年
- 『寺院大図鑑(天台宗兵庫教区)』