山枡儀重
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山枡 儀重(やまます のりしげ、1889年(明治22年)4月24日 - 1937年(昭和12年)12月25日)は、日本の衆議院議員(憲政会→立憲民政党)、教育者。
経歴
[編集]鳥取県久米郡倉吉町(現在の倉吉市)出身。山枡友蔵の二男。1907年に明星商業学校(現在の明星中学校・高等学校)を卒業し、翌年4月から大阪市内の小学校に勤務した。1914年に小学校を辞め、京都帝国大学文科大学哲学科に入学し、1917年に卒業した。卒業後は愛知第一師範学校に勤務し、1919年からは大阪市視学となった。1921年から一年間欧米各国を視察した。
1924年、大阪市視学を辞職して、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、5回当選を重ね、在職のまま死去した[1]。その間、1931年には第2次若槻内閣で内閣総理大臣秘書官を務め、1934年からは岡田内閣で文部参与官を務めた。その他、1936年には日本美術学校(現在の日本美術専門学校)校長に就任している。
著書
[編集]- 欧米革新教育の実際(内外出版 1925年)
- 大人の教育(モナス 1926年)
- 欧米政治行脚(平凡社 1929年)
- 比例代表(平凡社 1929年)
- 教育を直視して(宝文館 1930年)
- 私有財産制度と国家社会主義(宝文館 1932年)
- 人間生活の教育(南光社 1933年)
- 憲政よ何処へ(宝文館 1934年)
- 人間の権威(同文書院 1937年)
脚注
[編集]- ^ 『官報』第3296号、昭和12年12月27日
参考文献
[編集]- 『倉吉町誌』倉吉町、1941年。