山梨師範学校
山梨師範学校 (やまなししはんがっこう) は第二次世界大戦中の1943年 (昭和18年) に、山梨県に設置された師範学校である。本項は、山梨県師範学校・山梨県女子師範学校などの前身諸校を含めて記述する。
概要
[編集]- 山梨県師範学校・山梨県女子師範学校の統合・官立移管により設置され、男子部・女子部を置いた。
- 江戸幕府の学問所の一つであった、甲府学問所 (のちに徽典館と命名) を起源とする。起源を同じくする学校に山梨県立甲府第一高等学校がある。
- 第二次世界大戦後の学制改革で新制山梨大学学芸学部 (現・教育人間科学部) の前身の一つとなった。
- 同窓会は 「徽典会」 と称し、旧制 (山梨師範・山梨青師)・新制 (山梨大学学芸学部・教育学部・教育人間科学部) 合同の会である。
沿革
[編集]廃藩置県以前
[編集]甲府学問所、旧・徽典館
[編集]- 1795年(寛政7年): 甲府城内に甲府学問所設置。
- 1803年(享和3年): 追手門南三町 (現・甲府市丸の内1丁目) に移転。
- 1805年(文化2年): 大学頭 林衡によって徽典館と命名。
- 1843年(天保14年): 校舎改築。江戸城紅葉山文庫・昌平黌の一部図書を移収。
- 「重新徽典館碑」 はこのころの作。
- 1868年(慶応4年)3月: 甲府開城により一時休講。
- 1868年7月: 再開。
山梨県立期
[編集]旧・徽典館、開智学校
[編集]師範講習学校、旧・山梨県師範学校
[編集]- 1874年3月4日: 開智学校を師範講習学校と改称。
- 教員講習 (20日課程) を実施。
- 1874年9月: 校舎老朽化のため甲府 愛宕町の長禅寺に移転。
- 1875年3月15日: 師範講習学校を山梨県師範学校と改称。
- 修業年限2年。8月6日、第1回入学式。
- 1875年6月: 甲府 金手町 (現・城東) の尊体寺に移転。
- 1876年7月: 甲府 錦町 (現・中央1丁目の中央公園) の新校舎に移転。
- 1877年7月17日: 中学予備学科を設置。
- 1878年9月25日: 附属女子師範学校開校 (14歳-20歳対象)。
- 1880年9月13日: 中学予備学科を山梨県中学校と改称 (10月23日開校)。
- のちの山梨県立甲府第一高等学校。
- 1881年7月1日: 附属女子師範学校を附属山梨女学校と改称。
- 女子小学師範科・女子高等普通学科を設置。
山梨学校、徽典館
[編集]- 1881年8月23日: 師範学校・中学校が合併し、山梨学校と改称。
- 師範科・中学科を設置。
- 1881年12月: 県立病院 (甲府 錦町) 内医学校を吸収し、医学科を設置。
- 1882年2月: 山梨学校師範学科が師範学校教則大綱に準拠。
- 師範学科に初等科 (1年)・中等科 (2.5年)・高等科 (4年) を設置。
- 1882年10月7日: 徽典館と改称。
- 師範学科・初等中学科を設置。漢学専修科 (漢学科、2年制) を増設。
- 1883年1月29日: 校舎焼失。江戸時代からの書籍の大半を失う。
- 1883年6月: 徽典館医学科、県立病院内に復帰。
- 1884年9月: 新校舎竣工。
- 1886年4月: 附属山梨女学校 (徽典館女教場) の女子高等普通科を廃止。
- 女子師範学科のみ存続。
山梨県尋常師範学校
[編集]山梨県師範学校
[編集]- 1898年4月: 師範教育令により山梨県師範学校と改称。
- 1908年3月: 学則改正。
- 1910年3月: 西山梨郡相川村字昌永 (現・甲府市武田、山梨大学教育人間科学部所在地) の新校舎に移転。
- 1914年11月24日: 本館ほかを焼失。書籍類をすべて失う。
- 1916年1月: 新校舎完成。
- 1921年3月: 研究科 (1年制) を設置。
- 1923年4月: 予備科 (1年制) を再設置。
- 1924年4月: 女子部を分離し、山梨県女子師範学校設立。
- 1925年4月: 予備科を廃止し、本科第一部を 5年制に変更。研究科を専攻科と改称。
- 1927年: 「水晶館」 を設置。
- 1931年1月: 本科第二部を 2年制に延長。
山梨県女子師範学校
[編集]- 1924年4月: 山梨県師範学校女子部を改組し、山梨県女子師範学校設立。
- 1924年10月: 東山梨郡加納岩村(現・山梨市上神内川)に移転。
- 山梨県立山梨高等女学校を併設(現・山梨県立山梨高等学校)。
- 1925年4月: 本科第一部を 5年制に変更。
- 1931年1月: 本科第二部を 2年制に延長。
官立期
[編集]山梨師範学校
[編集]- 1943年4月1日: 山梨県師範学校・山梨県女子師範学校を統合し、官立山梨師範学校設置。
- 旧山梨県師範学校校舎に男子部、旧山梨県女子師範学校校舎に女子部を設置。
- 1944年: 女子部に学校工場設置 (被服製造 山一工場)。
- 1944年末: 男子部に軍医学校等が疎開。
- 1945年4月: 女子部に東洋通信機疎開工場を設置。
- 1945年7月6日: 甲府空襲で男子部校舎焼失。
- 附属国民学校の一部のみ残存。
- 1945年12月: 男子部、旧陸軍六三部隊跡に移転。
- 1946年12月: 男子部新校舎着工。
- 1947年6月: 男子部、新校舎に移転。
- 1949年5月31日: 新制山梨大学発足。
- 1951年3月: 旧制山梨師範学校、廃止。
歴代校長
[編集]- 山梨県師範学校(前身諸校を含む)
- 金子尚政:1876年10月 - 1877年3月
- 綿引泰:1877年3月 - 1881年2月(心得)
- 阪根正夫:1881年8月20日 - 1881年11月(山梨学校長心得)[2]
- 広瀬範治:1882年2月 - 1884年4月
- 吉田義静:1887年3月24日 - 1887年5月14日[3]
- 井手今滋:1887年5月31日[4] - 1889年12月24日
- 長倉雄平:1889年12月24日 - 1892年4月1日[5]
- 生駒恭人:1892年4月1日[5] - 1894年6月16日
- 亀井義六:1894年6月 - 1894年8月(事務取扱)
- 小野恒剛:1894年8月20日 - 1900年6月21日
- 太田秀穂:1900年6月21日 - 1905年1月10日
- 安藤喜一郎:1905年1月10日 - 1905年5月25日
- 森山辰之助:1905年6月1日 - 1910年6月17日
- 西村光弥:1910年6月17日 - 1915年7月26日
- 浜幸次郎:1915年7月26日 - 1919年9月
- 鈴木利平:1919年9月 - 1932年4月
- 太田章一:1932年4月 - 1939年3月
- 真野常雄:1939年3月 - 1943年3月
- 山梨県女子師範学校
- 久米卯之彦:1924年 - 1935年
- 小畑善吉:1935年 - 1942年
- 川上喜市:1942年 - 1943年
- 官立山梨師範学校
校地の変遷と継承
[編集]- 山梨師範学校男子部
前身の山梨県師範学校から引き継いだ甲府市古府中町2282番地 (旧・相川村字昌永、現・甲府市武田4丁目) の校地を使用した。1945年7月の甲府空襲で校舎を焼失し、同年9月の授業再開時は、焼け残った附属国民学校の一部建物を使用した。同年12月、市内古府中町 (現・北新) の旧陸軍六三部隊兵舎跡に移転したが、1947年6月、元の男子部校地に竣工した新校舎に復帰した。同校地は後身の新制山梨大学学芸学部 (現・教育人間科学部) に継承され、現在に至っている。
- 山梨師範学校女子部
前身の山梨県女子師範学校から引き継いだ加納岩村 (現・山梨市上神内川) の校地を使用した。同校地は後身の新制山梨大学学芸学部に継承され加納岩分校 (2年課程を設置) となったが、1952年4月に 2年課程は甲府の学芸学部本校に統合され、加納岩分校は廃止された (西隣にあった附属幼稚園のみは1962年3月まで加納岩に残った)。旧・加納岩校地は元併設校の山梨県立山梨高等学校 (旧・山梨県立高等女学校) に引き継がれて現在に至っている。
著名な出身者
[編集]関連書籍
[編集]- 学芸学部沿革史編集委員会(編) 『山梨大学学芸学部沿革史』 山梨大学学芸学部、1964年。
1884年(明治17年)に師範学校が再建された際には、校舎裏の池に「活地図」が作られた。これは開館後の10月2日にアメリカから理科用器械が寄付されると、実験・実測ための教材として作られた日本列島の縮小模型。スイスの教育者であるヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの提唱した開発主義(実物教授)の理論に基づき、事物に基づいた感覚を重視した教育を取り入れ、その指導法を身に付ける意図で導入された。
「活地図」は3年がかりで1880年(明治13年)に作成されていたもの。2500坪の土地に盛土で日本列島を形作り、木々を受けて河川には石を並べ、琵琶湖には実際に水を溜めた。さらに火山の下では火を燃やして煙を出す趣向も作られ、周囲には濁川から水を引き、小舟を浮かばせた。
脚注
[編集]- ^ 『写真集 明治大正昭和 甲府』ふるさとの想い出 10、飯田文弥・坂本徳一著、図書刊行会、昭和53年、国立国会図書館蔵書、2019年3月22日閲覧
- ^ 国立公文書館「秋田県属阪根正夫秋田県尋常師範学校長ニ被任ノ件」明治20年10月5日の添付履歴書の記載に依る。離任日は定かではないが、1881年11月9日に文部省御用で出京、そのまま同月14日に「文部六等属」に任じられた。なお、前1880年10月19日には「師範学校副校長」に就任していた。
- ^ 国立公文書館「吉田義静山梨県尋常師範学校長ニ被任ノ件」履歴書付、明治20年3月24日。同「山梨県尋常師範学校長吉田義静依願本官被免ノ件」明治20年5月14日。吉田義静は熊本県士族、辞職理由はフランス留学のため。
- ^ 国立公文書館「林務官井出今滋外一名尋常師範学校長ニ転任ノ件(履歴書付)」明治20年05月31日。
- ^ a b 『官報』第2625号、明治25年4月2日。
- ^ 『官報』第4865号、昭和18年4月2日。
- ^ a b 『官報』第5664号、昭和20年11月28日。
- ^ 青木(2005)、p.99
参考文献
[編集]- 青木桂子「諸学校の創設維持」『山梨県史 通史編5 近現代1』山梨県、2005年