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山田匡蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
山田 匡蔵(耕雲)

山田 匡蔵(やまだ きょうぞう、あるいは山田耕雲、- こううん、1907年3月18日 - 1989年9月13日[1])は、日本実業家日本油脂常務東京顕微鏡院理事長)、指導者(三宝教団2代管長・正師家、耕雲軒山田円光禅心)。

略歴

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学歴

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1907年3月18日、山田脩二本松町長二本松製糸会社副社長[2]の次男として福島県二本松市に生まれる。

第一高等学校 (旧制)から東京帝国大学法学部に進む。在学中に高等文官行政科試験に合格[3]。1930年に卒業[4]

職歴

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千代田生命に入社するも長兄が亡くなり、家業を助けるため、妹の友人で小児科医山田和江(旧姓:阿部)と結婚後、満州に渡り満州鉱山で人事課長となる。引き揚げ後鎌倉に居住。満州時代の上司の勧めで日本油脂に入り、常務にまで昇進した。その傍ら、1955年より妻が師より委嘱された東京顕微鏡院の経営に携わり、亡くなるまで理事長を務めた。その他、富士エージェンシー社長、財政経済弘報社社長も務めた。1989年9月13日逝去。

役職歴

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禅歴

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満州で河野宗寛に師事。引き揚げ後、円覚寺朝比奈宗源黙仙寺花本貫瑞に師事。のちに一高時代の友人中川宗淵の勧めで安谷白雲原田祖岳に師事して研鑽を重ねて見性を得、鎌倉白雲会を設立。1960年嗣法し、1967年には正師家に、1970年に後を継いで三宝教団の2代目管長に就任。鎌倉の自宅を禅堂に改装し、世界各国からの多くの参禅者を指導した。

家族

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父は二本松製糸会社副社長で第3代二本松町長の山田脩(旧姓:梅原)、妻は医師で東京顕微鏡院名誉理事長の山田和江、長女は元朝日ジャーナル編集長下村満子、長男はイトーキ会長、元三菱銀行専務で三宝禅4代管長の山田匡通(凌雲)、次男は三菱化学副社長の山田洋輔

弟子

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ルベン・アビト窪田慈雲外池碧雲山田匡通ほか

著作物

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  • 『禅の正門』(春秋社、1980年→新版1986年)
  • 『提唱禅宗五部録 上・下』(春秋社、1988年)
  • 『耕雲禅話』(ぱる出版、1989年)
英訳

脚注

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  1. ^ 宗教情報リサーチセンター>教団データーベース
  2. ^ 二本松市>近代製糸業の先覚者 山田 脩
  3. ^ 紅林茂夫「故山田匡蔵殿-追悼の辞-」(『国際経済研究』105号、1989年)
  4. ^ Robert Baker Aitken「Remembering Yamada Koun Roshi」(『The Eastern Buddhist』23号、1990年)

参考文献

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  • 紅林茂夫「故山田匡蔵殿-追悼の辞-」(『国際経済研究』105号、国際経済研究センター、1989年)
  • Robert Baker Aitken「Remembering Yamada Koun Roshi」(『The Eastern Buddhist』23号、1990年)
  • 山田匡通「母の教え35回-父と母から教えられた『禅』。禅がわたしの人生の支えです-」(『財界』62-23号、2014年11月)
  • 山田匡通「他人の幸せは自分の幸せと感じるように」(『プレジデント』2022年9月16日号、プレジデント社、2022年)

外部リンク

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先代
安谷白雲
三宝禅管長
第2代:1970年 - 1989年
次代
窪田慈雲