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山田国太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山田 国太郎(國太郎、やまだ くにたろう、1894年明治27年)5月13日[1] - 1984年昭和59年)6月13日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将功四級[2]

経歴

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山田与左右衛門の長男として愛知県に生まれる[3]1915年大正4年)陸軍士官学校第27期卒業[2]。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官する[2]。ついで1928年(昭和3年)12月に陸軍大学校第40期を優等で卒業する[4]

1934年(昭和9年)10月に陸軍大学校教官兼研究部主事を発令され、1937年(昭和12年)8月2日に陸軍歩兵大佐に進む[5]。同月30日、第2軍情報課長に転じ、支那事変に出動し[1]1938年(昭和13年)3月に陸軍省兵務局兵務課長、1939年(昭和14年)1月に陸軍省兵務局防衛課長を経て、同年4月に戦車第5大隊長に補任[6]

ついで同年7月、陸軍公主嶺学校戦車教導隊長に転じ、1940年(昭和15年)3月に陸軍公主嶺学校幹事となり、同年8月、陸軍少将に進級[5]

さらに1941年(昭和16年)4月に陸軍機甲本部附となり、大東亜戦争が勃発すると同年12月に第1戦車団長、1942年(昭和17年)4月に戦車第2旅団長を経て、1943年(昭和18年)1月に泰国駐屯軍参謀長兼泰国在勤帝国大使館附武官に補される[1]。同年10月に陸軍中将に進み、1944年(昭和19年)11月に第48師団長となり、ティモール島の警備に任じ、翌年終戦を迎えた[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]

栄典

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外国勲章佩用允許

脚注

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  1. ^ a b c d e 福川 2001, 763頁.
  2. ^ a b c 外山 1981, 369頁.
  3. ^ 人事興信所 1943, ヤ103頁.
  4. ^ 外山 1981, 付録第一25頁.
  5. ^ a b 外山 1981, 369-370頁.
  6. ^ 外山 1981, 370頁.
  7. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。
  8. ^ 阿部勝雄外三十二名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113477700 

参考文献

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  • 人事興信所 編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1704455 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026 
  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738