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山田重英

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
山田 重英
時代 戦国時代後期 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正16年(1588年[1]
別名 八蔵[1]
墓所 山田八蔵塚(愛知県岡崎市本宿町柿崎)[2]
主君 鳥居久兵衛、徳川家康
氏族 尾張源氏山田氏[1]
山田甚平の妻?[注釈 1][4]
養子:甚平?[注釈 1]重次[注釈 2][1]
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山田 重英(やまだ しげふさ)は、戦国時代から安土桃山時代武士徳川家康の家臣。

生涯

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尾張源氏の一流である山田氏の末裔で、『岡崎東泉記』によれば家康の嫡男である岡崎城松平信康の重臣・鳥居久兵衛[注釈 3]の家臣だったという[7][8]永禄6年(1563年三河一向一揆蜂起の際には戸田忠次鳥居重正らとともに佐々木上宮寺に入って一揆方に与している[9][10]

天正3年(1575年)同輩の小谷甚左衛門[注釈 4]に誘われ、大賀弥四郎らの計画する武田氏内通の謀議に加わる。しかし重英は途中で思い直して事の次第を信康に報じ、大賀弥四郎らの陰謀を事前に食い止めることとなった。この功により碧海郡柿崎に500石の加増を受け、後に同郡大浜額田郡上地も加増された。上の経緯から「訴人八蔵」の異名があったという。

天正16年(1588年)岡崎で同輩の渥美弥三郎[注釈 5]と口論し、殺害された。所領はすべて没収となった。

天正17年(1589年)養子の重次[注釈 2]が仇討ちを果たして認められ、翌年に300石を与えられて家名を再興した[7][2][1][5]

関連作品

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テレビドラマ

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 寛永諸家系図伝』は幡豆小笠原氏の小笠原甚平が一時「山田八蔵」の婿養子として家督を継いでいたとする[1][3]
  2. ^ a b 幡豆小笠原氏小笠原時忠の子[5][4]
  3. ^ 寛政重修諸家譜』は、鳥居又右衛門重正が信康の傅役だったとする[6]
  4. ^ 三河物語』等は名を甚左衛門とするが、『岡崎東泉記』は甚右衛門の子で九郎左衛門としている[7]
  5. ^ 岡崎近郷・宇頭の武士[11]

出典

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参考文献

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  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編 岡崎市史』 2巻《中世》、新編岡崎市史編さん委員会、1989年。 
  • 『家康史料集』小野信二(校注)、人物往来社〈戦国資料叢書〉、1965年。 
  • 久曾神、近藤 編『近世三河地方文献集』国書刊行会、1980年。 
  • 寛政重修諸家譜』 3巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1964年。ISBN 978-4-7971-0207-9 
  • 『寛政重修諸家譜』 9巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0213-0 
  • 寛永諸家系図伝』斎木一馬・林亮勝橋本政宣(校訂)、八木書店、2014年。ISBN 978-4-8406-3595-0