山田陸槌
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山田 陸槌(やまだ りくつい、1869年10月1日(明治2年8月26日) - 1940年2月10日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]福岡県出身。1890年(明治23年)7月、陸軍士官学校(1期)を卒業、 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を工兵科2番/8名で卒業している。翌年3月、工兵少尉任官。1899年(明治32年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業。参謀本部勤務となる。
1905年(明治38年)4月、東宮武官に就任。1909年(明治42年)5月、参謀本部通信課長に転じ、1910年(明治43年)10月、工兵大佐に昇進した。1913年(大正2年)3月、鉄道連隊長となり、1914年(大正3年)8月、臨時鉄道連隊長に発令され青島の戦いに出征。1915年(大正4年)2月、青島守備軍参謀に転じた。同年8月、陸軍少将に進級し舞鶴要塞司令官に着任。
1917年(大正6年)8月、台湾総督府陸軍部参謀長に就任。1918年(大正7年)8月、交通兵団長に転じ、近衛師団司令部付を経て、1919年(大正8年)7月、陸軍中将に進み工兵監に就任。1921年(大正10年)6月、第5師団長に親補された。1923年(大正12年)8月、待命となり、同年9月、予備役に編入された。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1902年(明治35年)11月29日 - 勲五等瑞宝章[4]
- 1915年(大正4年)11月7日 - 功三級金鵄勲章・大正三四年従軍記章[5]
- 1919年(大正8年)12月15日 - 戦捷記章[6]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日重光章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[7]
- 1922年(大正11年)8月29日 - 勲一等瑞宝章[8]
著作
[編集]- 『応用帥兵術』軍需商会、1907年。
- 『交通学講授録』陸軍大学校将校集会所、1907年。
親族
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。