山路秀男
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山路 秀男(やまじ ひでお、1892年(明治25年)1月22日[1] - 1981年(昭和56年)8月30日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]愛媛県[1][3]松山市[2][4]出身。山路一遊の息子として生れる。
- 1913年(大正2年)
- 1923年(大正12年)11月:陸軍大学校(35期)卒業[1][3][6]。
- 1929年(昭和4年)3月:歩兵少佐[7]。
- 1933年(昭和8年)12月:歩兵中佐。
- 1936年(昭和11年)8月:陸軍歩兵学校教官 兼 同校研究部部員[7]。
- 1937年(昭和12年)
- 1939年(昭和14年)1月31日:陸軍兵器本廠付(陸軍経理学校教官)[3]。
- 1940年(昭和15年)8月1日:陸軍少将。第2戦車団長[1][3]。
- 1942年(昭和17年)6月26日:教導戦車団長[1][3]。
- 1943年(昭和18年)3月9日:東部軍兵務部長[1][3]。
- 1944年(昭和19年)1月7日:陸軍中将。戦車第3師団長に親補[1][3]。
- 1945年(昭和20年)8月15日:北京で終戦[1][2]。
その後、邦人の引揚に尽力[2]。
1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[8]。
1981年8月、急性心筋梗塞のため世田谷区梅丘の自宅で死去[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』759頁。
- ^ a b c d e 『現代物故者事典 1980〜1982』337頁。
- ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』335頁。
- ^ 『日露年鑑 昭和8年版』日露通信社、1933年、14頁
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』328、335頁。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、575頁。
- ^ a b 『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和11年9月1日調』135頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十三年一月三十一日 仮指定者」210頁。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 『現代物故者事典 1980〜1982』日外アソシエーツ、1983年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 陸軍省編『陸軍現役将校同相当官実役停年名簿 昭和11年9月1日調』偕行社、1936年。