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岐阜県立恵那高等学校蛭川分校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岐阜県立恵那高等学校蛭川分校
国公私立の別 公立学校
設置者 蛭川村
設立年月日 1949年
閉校年月日 1971年
共学・別学 男女共学
課程 定時制
設置学科 普通科
所在地 509-8301
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岐阜県立恵那高等学校蛭川分校(ぎふけんりつえなこうとうがっこう ひるかわぶんこう)は、かつて岐阜県恵那郡蛭川村(現・中津川市蛭川)にあった公立高等学校分校

概要

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恵那高等学校の昼間定時制の分校であった。岐阜県立の高等学校の分校であったが、設置者は蛭川村であった[注釈 2]。全卒業生数は368名。

廃校後、校舎は1973年昭和48年)3月にに蛭川村教育会館となった後、改修され1974年(昭和49年)から蛭川村役場として使用され[1]2001年(平成13年)に隣接地に新庁舎竣工後も旧庁舎として使用された。2023年令和5年)現在、蛭川総合事務所旧庁舎として、中津川北商工会蛭川支所、蛭川振興会事務所などに使用されている。2023年(令和5年)5月15日に落雷により建物の一部が焼失する被害が発生[2]。暫定処置として焼失個所のみ解体となったが、老朽化もあり、将来は全て取り壊す予定である[3]

沿革

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  • 1949年昭和24年)
    • 4月 - 恵那郡蛭川村に岐阜県立恵那高等学校蛭川分校の設置が認可される。
    • 5月 - 開校。夜間定時制で普通科を設置。校舎は蛭川小学校の校舎の一部を使用する。後蛭川村公民館を教室とする。
  • 1951年(昭和26年)4月 - 夜間定時制普通科を設置。
  • 1955年(昭和30年)4月 - 独立校舎が完成。
  • 1959年(昭和34年)
    • 1月 - 生徒数増加のため、1955年(昭和30年)新築の校舎を解体して敷地を拡張し、新たな校舎を建設することとなる。
    • 3月7日 - 理科教室(新校舎一期工事・木造平屋建)が完成。
    • 4月 - 夜間定時制普通科を廃止。
    • 10月8日 - 新校舎(普通教室二期工事・木造2階建)が完成。
  • 1968年(昭和43年)3月 - 募集を停止する。
  • 1971年(昭和46年)
    • 3月5日 - 閉校式を行う。
    • 3月31日 - 廃校。廃校時の生徒数は32名。

脚注 

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注釈 

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  1. ^ 現・岐阜県中津川市蛭川2178-8
  2. ^ 岐阜県の高等学校の定時制分校は、通称「岐阜県方式」という制度により、分校のある市町村や学校組合が設置者となり、運営と費用負担を行った。指導と教職員の派遣は岐阜県が行った。

出典

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  1. ^ 岐阜県教育史別編一 ビジュアル版(2005年岐阜県教育委員会)P.175。
  2. ^ 蛭川総合事務所の旧事務所における火災対応について” (PDF). 中津川市. 2023年8月29日閲覧。
  3. ^ 施設分野別の再編計画” (PDF). 中津川市. 2023年8月29日閲覧。

参考文献

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  • 岐阜県定通教育三十周年記念誌 (岐阜県高等学校定時制通信制三十周年記念会 1978年) P.41 119
  • 恵那市史 通史編 第3巻(1)下 近現代 (恵那市史編纂委員会 1993年) P.375 - 377 ※恵那高等学校に関する記述内
  • 蛭川村史 (蛭川村史編纂委員会 1974年) P.630 - 635
  • 岐阜県教育史 別編一 ビジュアル版(岐阜県教育委員会 2005年)P.175 - 177

関連項目

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