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岡本照富

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

岡本 照富(おかもと てるとみ、永禄7年(1564年) - 天正12年5月7日1584年6月15日))は、下野国塩谷郡戦国武将。清四郎[1]、宗方[2]。父は岡本正親。姉は塩谷義通の妻。弟に正富

沿革

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照富は、岡本正親の嫡男として松ヶ嶺城に生まれる。武芸に秀でる一方、京の謡曲師道慶に師事し、謡、鼓などを習うなど、正親の後継として育てられる。

天正12年(1584年)5月7日、父と弟正富とともに参戦した佐野沼尻の戦いにおいて、弟とともに北条方の武将広沢三郎、向笠内蔵助と戦に先立ち一騎討ちを行い、これに敗れて弟とともに討ち死にした。享年21。戒名は忠徳院鏡山全鑑大居士。当時、父正親が皆川広照に使えていた関係から、当初、照富の亡骸は弟とともに大中寺に葬られるが、慶長2年(1597年)、正親が2人の息子のために、その戒名を取り鏡山寺という菩提寺を創建し、現在はここに眠る。

脚注

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  1. ^ 清三郎とする文献もあり。また、根小屋城代として列記されている岡本清五郎が照富であるとの指摘もある。
  2. ^ 那須記』に記された照富の名(岡本四郎宗方)であるが、那須記の照富の記述には誤解が多く、照富が実際に名乗っていたかは不明。