岡田康志 (野球)
基本情報 | |
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出身地 | 日本 徳島県 |
生年月日 | 1961年4月6日(63歳) |
選手情報 | |
ポジション | 捕手 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督・コーチ歴 | |
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この表について
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岡田 康志(おかだ やすし、1961年〈昭和36年〉4月6日[1] - )は、徳島県出身の高校野球指導者。徳島県立池田高等学校の名物監督として知られた蔦文也のもとで選手とコーチを経験し、蔦を引き継いで同高や徳島県立穴吹高等学校で監督を務めた[2]。
経歴
[編集]吉野川市立鴨島第一中学校卒業後[3]に進学した徳島県立池田高等学校では野球部に所属し、蔦文也監督のもとで3年時より主将を務めた。主力捕手として1979年の春夏甲子園に連続出場。夏の大会では準優勝を果たした[1][2][3][4]。
筑波大学に進学し、卒業後は保健体育教諭となる。母校の池田高校に赴任し、監督・蔦のもとで野球部コーチを務めた。1991年には蔦の代理監督として夏の甲子園大会で采配を振った。翌1992年4月からは蔦の後任として正式に監督に就任。同年の夏の甲子園大会にも出場し、8強入りを果たした[1][2][3][4]。
1998年からは徳島県立穴吹高等学校に赴任。2010年まで同校野球部監督を務めた[2]。
2010年4月より池田高校の野球部監督に復帰。2014年、春の甲子園への出場を果たし、春夏合わせて同高にとって実に22年ぶりの甲子園大会出場となった[1][2][3][4]。同年、日本高等学校野球連盟より育成功労賞を受賞[5]。
2016年4月からは井上力が監督に就任し[6]、岡田は野球部の部長を務めている。
人物
[編集]指導者としては、選手の自主性を尊重した指導を心掛けている[3][4][7]。
恩師である蔦文也が2001年に没した翌年からは、同じく蔦の教え子だった高校野球指導者の矢川雅英、和田哲幸、井上力、住吉圭吾と共に各人が指導するチーム同士での追悼試合を毎年行っていた[8]。
著書
[編集]- 『甲子園に響いた新やまびこ打線 ― 池田高に受け継がれる蔦野球の魂』ベースボールマガジン社、2014年7月。ISBN 9784583107066。
脚注
[編集]- ^ a b c d 出崎敦史 (2014年1月24日). “【高校野球】徳島・池田高野球部監督の岡田康志さん「蔦先生の魂を伝えたい」”. 産経WEST: pp. 1-2. オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。 2016年1月10日閲覧。
- ^ a b c d e “甲子園に響いた新やまびこ打線 〜池田高に受け継がれる蔦野球の魂〜”. BBM@BOOK CART. ベースボール・マガジン社. 2022年2月19日閲覧。
- ^ a b c d e “27年ぶりに選抜高校野球大会に出場する池田高監督 岡田康志(おかだやすし)さん”. 徳島新聞. (2014年1月25日). オリジナルの2014年4月7日時点におけるアーカイブ。 2016年1月10日閲覧。
- ^ a b c d 船曳陽子 (2014年3月20日). “池田高校、22年ぶり聖地へ。〜選抜で響く「ニューやまびこ」〜”. Number Web 2016年1月10日閲覧。
- ^ “27年ぶりセンバツ池田・岡田監督に功労賞”. 日刊スポーツ. (2014年6月6日) 2022年2月19日閲覧。
- ^ 吉仲博幸 (2016年7月8日). “【徳島】池田・井上監督 真の復活へ導く!蔦、岡田両氏からバトン「夢の夢の…」”. Sponichi Annex 2022年2月19日閲覧。
- ^ 土井省一 (2014年4月16日). “人ひと徳島―自主性尊重で名門復活”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). オリジナルの2016年3月4日時点におけるアーカイブ。 2016年1月10日閲覧。
- ^ “〈夏どまんなか1〉 蔦野球継承、教え子5人が監督に”. asahi.com. (2006年7月28日). オリジナルの2006年7月15日時点におけるアーカイブ。 2016年1月10日閲覧。