岡野成旭
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岡野成旭(おかのなりてる)は、江戸時代中期の旗本。岡野成明の次男。岡野氏直系の子孫。通称、房明、平九郎、平左衛門[1]。
経歴
[編集]岡野成明と加藤正重の娘の次男として生まれる。明暦3年(1657年)6月25日、将軍徳川家綱に初の御目見得を果たす[1]。
寛文3年(1663年)11月19日、御小姓組に列する。後に岡野成恒の養子となる。同10年(1670年)6月10日、養父岡野成恒が知行を賜ると、成旭も350石に加えて廩米600俵を賜る[1]。
天和元年(1681年)4月、阿部正邦が丹後国宮津藩に、土井利益が志摩国鳥羽藩に転封する際、曾我仲祐とともに同地に赴いて台命を告げる。同3年(1683年)8月23日、御徒頭となり、同年12月15日に布衣の着用を許される[1]。
元禄7年(1694年)4月14日、目付に就任する。同9年(1696年)3月28日、御手船になる。同10年(1697年)7月26日、下総国葛飾・武蔵国葛飾・伊豆国賀茂3郡の内から、600石の領知を賜り、合わせて950石を知行された。同14年(1701年)8月21日、務めにかなわざることがあったとして、小普請入となる[1]。
宝永6年(1709年)10月23日、致仕する。享保5年(1720年)6月15日、死去。法名は日久。高田の亮朝院に葬られる。同地は、後に代々の葬地となる[1]。
妻は、長谷川正相の娘[1][2]。なお、この長谷川家は、火付盗賊改方で有名な長谷川平蔵(長谷川宣以)と同族。生年は不明だが、岡野成明や岡野成恒の生年死没、行動を他と見ると1633年〜1655年までには、生まれていたと推測される。[要出典]