岩井勘六
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岩井 勘六 | |
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生誕 |
1871年10月14日 日本 山形県 |
死没 | 1947年8月6日 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1893年 - 1923年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
岩井 勘六(いわい かんろく、1871年10月14日〈明治4年9月1日〉[1][注釈 1] - 1947年〈昭和22年〉8月6日[要出典])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級[2]。
経歴・人物
[編集]山形県で士族の岩井忠直の長男として生まれる[3]。1893年(明治26年)7月陸軍士官学校第4期卒業[4]。
1913年(大正2年)8月に神戸連隊区司令官、1916年(大正5年)1月に陸軍歩兵大佐を経て、同年4月に歩兵第27連隊長(歩兵第14旅団)に任官[5][2]。シベリア出兵に従軍[5]。
その後、1919年(大正8年)8月に陸軍少将・歩兵第11旅団長、1922年(大正11年)8月に第6師団司令部附を経て、1923年(大正12年)8月に待命、翌月、予備役に編入した[5][2]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7]
親族
[編集]出典:[3]
- 妻 静(1879年9月生)…秋田県の若林知次の五女
- 長男 忠一(1898年1月生)
- 次男 忠秋(1901年9月生)
- 長女 淑子(1903年8月生)
- 次女 捷子(1906年10月生)…関屋悌蔵(南満州鉄道社員、満州国厚生部次長)に嫁いだ[8]。
- 三女 美智子(1908年10月生)
- 四女 範子(1910年8月生)
- 三男 忠彦(1913年2月生)
- 四男 忠楠(1915年8月生)
- 五男 忠正(翻訳業、1920年 - 2022年)[9]
- 六男 忠熊(歴史学者、1922年 - 2023年)[10]
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 『大衆人事録 第14版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年、関東州7頁。
- ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』110頁。
- ^ a b 人事興信所 1918, い99頁.
- ^ 陸軍士官学校 編「本校卒業生徒人名表 明治26年7月卒業第4期士官候補生」『陸軍士官学校一覧』成進堂、1908年、21-22頁。
- ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』106頁。
- ^ 『官報』第3258号「叙任及辞令」1894年5月12日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 人事興信所 1943, セ21、コマ数930.
- ^ “2つの特攻兵器を経験した元学徒兵死去 102歳、岩井忠正さん「証言したい」最後まで”. 東京新聞. (2022年10月3日) 2023年11月6日閲覧。
- ^ 広岩近広「平和をたずねて 昭和の戦争を語る/1 軍国主義に染まった15年」『毎日新聞』2018年11月27日、大阪朝刊。
参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 人事興信所 編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年 。
- 人事興信所 編『人事興信録 第14版 上』人事興信所、1943年 。