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岩倉具経

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
岩倉具経
岩倉具経
生誕 嘉永6年6月17日1853年7月22日
死没 明治23年(1890年10月17日[1]
改名 八千麿、八千丸(幼名)[1]→具経
主君 明治天皇
氏族 岩倉家
父母 父:岩倉具視
母:野口為五郎次女・槇子[1]
兄弟 南岩倉具義、増子、具定具経
伊豆子、戸田極子、治子、静子、
森寛子道倶
養兄弟:具綱
大谷光勝六女・梭子
具明、八千代、具光鮫島具重
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岩倉 具経(いわくら ともつね、旧字体岩倉具󠄁經)は、幕末公家、明治期の官僚華族

経歴

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山城国京都で、岩倉具視の三男として生まれる[1]。母は野口為五郎の娘槇子。幼名は八千麿、八千丸。

戊辰戦争に際し慶応4年1月9日1868年2月2日)東山道鎮撫使副総督を命ぜられ、兄の総督・岩倉具定と共に江戸へ進軍[1][2]。同年5月20日(7月9日)奥羽征討白河口副総督に任じられたが、同年6月6日(7月25日)若年で勉学につくため免ぜられ帰京[1][2]。同月、勲功により一家を創設し堂上に列せられた[1][3]。同年7月15日(9月1日)元服して昇殿を許され勘解由長官に任じられた[2]1869年6月具定とともに佐賀藩校致遠館に派遣されフルベッキに学ぶ[4]。明治2年6月2日(7月10日)戊辰の戦功により賞典禄200石を永世下賜された[2]。明治3年1月1870年2月)アメリカ合衆国へ留学、1873年には最初の日本人学生としてオックスフォード大学に留学[5]1878年1月に帰国[1]

1878年8月20日、太政官権少書記官法制局専務となる[2]。以後、兼大蔵権少書記官、大蔵権少書記官兼太政官権少書記官などを歴任[2]1884年7月8日、男爵を叙爵[6]。同年9月、外務書記官に転じロシア公使館で勤務した[1]。帰国して1890年3月に宮中顧問官に就任したが、同年10月に病のため死去[1]

栄典

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位階
勲章等

系譜

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『明治維新人名辞典』127-128頁。
  2. ^ a b c d e f 『百官履歴 下巻』404-405頁。
  3. ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』上巻、212頁。
  4. ^ WEB歴史街道「致遠館と弘道館~岩倉具視が息子を託した佐賀の藩校」
  5. ^ オックスフォード大学日本事務所
  6. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  7. ^ 『官報』第1635号「叙任及辞令」1888年12月10日。
  8. ^ a b 『官報』第2193号「叙任及辞令」1890年10月20日。
  9. ^ 『官報』第1791号「叙任及辞令」1889年6月20日。
  10. ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
  11. ^ 『「番町会」を暴く. 帝国人絹の巻』 (時事新報社, 1934)

参考文献

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  • 修史局編『百官履歴 下巻』日本史籍協会、1928年。
  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
  • 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
公職
先代
山尾庸三
日本の旗 北白川宮別当
1888年 - 1890年
次代
高崎正風
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
岩倉家(分家)初代
1884年 - 1890年
次代
岩倉具明