岩倉具経
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(岩倉具經から転送)
岩倉具経 | |
生誕 | 嘉永6年6月17日(1853年7月22日) |
死没 | 明治23年(1890年10月17日[1]) |
改名 | 八千麿、八千丸(幼名)[1]→具経 |
主君 | 明治天皇 |
氏族 | 岩倉家 |
父母 |
父:岩倉具視 母:野口為五郎次女・槇子[1] |
兄弟 |
南岩倉具義、増子、具定、具経、 伊豆子、戸田極子、治子、静子、 森寛子、道倶 養兄弟:具綱 |
妻 | 大谷光勝六女・梭子 |
子 | 具明、八千代、具光、鮫島具重 |
岩倉 具経(いわくら ともつね、旧字体:岩倉具󠄁經)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。
経歴
[編集]山城国京都で、岩倉具視の三男として生まれる[1]。母は野口為五郎の娘槇子。幼名は八千麿、八千丸。
戊辰戦争に際し慶応4年1月9日(1868年2月2日)東山道鎮撫使副総督を命ぜられ、兄の総督・岩倉具定と共に江戸へ進軍[1][2]。同年5月20日(7月9日)奥羽征討白河口副総督に任じられたが、同年6月6日(7月25日)若年で勉学につくため免ぜられ帰京[1][2]。同月、勲功により一家を創設し堂上に列せられた[1][3]。同年7月15日(9月1日)元服して昇殿を許され勘解由長官に任じられた[2]。1869年6月具定とともに佐賀藩校致遠館に派遣されフルベッキに学ぶ[4]。明治2年6月2日(7月10日)戊辰の戦功により賞典禄200石を永世下賜された[2]。明治3年1月(1870年2月)アメリカ合衆国へ留学、1873年には最初の日本人学生としてオックスフォード大学に留学[5]、1878年1月に帰国[1]。
1878年8月20日、太政官権少書記官・法制局専務となる[2]。以後、兼大蔵権少書記官、大蔵権少書記官兼太政官権少書記官などを歴任[2]。1884年7月8日、男爵を叙爵[6]。同年9月、外務書記官に転じロシア公使館で勤務した[1]。帰国して1890年3月に宮中顧問官に就任したが、同年10月に病のため死去[1]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
系譜
[編集]- 父:岩倉具視
- 母:岩倉槇子 - 野口為五郎の次女
- 妻:岩倉梭子(おさこ、大谷光勝六女)[3]
- 長男:岩倉具明(1891年4月、具経の勲功により子爵に陞爵)[3]
- 長女:中島八千代(中島久万吉の妻)[3]
- 三男:岩倉具光(国際運送社長、京阪神急行電鉄副社長、合同運送、タクシー自動車、桜セメント、東亜石灰各取締役、阪急電車監査役)[11]
- 四男:鮫島具重(鮫島員規養子)[3]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『明治維新人名辞典』127-128頁。
- ^ a b c d e f 『百官履歴 下巻』404-405頁。
- ^ a b c d e f 『平成新修旧華族家系大成』上巻、212頁。
- ^ WEB歴史街道「致遠館と弘道館~岩倉具視が息子を託した佐賀の藩校」
- ^ オックスフォード大学日本事務所
- ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
- ^ 『官報』第1635号「叙任及辞令」1888年12月10日。
- ^ a b 『官報』第2193号「叙任及辞令」1890年10月20日。
- ^ 『官報』第1791号「叙任及辞令」1889年6月20日。
- ^ 『官報』第1929号「叙任及辞令」1889年12月2日。
- ^ 『「番町会」を暴く. 帝国人絹の巻』 (時事新報社, 1934)
参考文献
[編集]- 修史局編『百官履歴 下巻』日本史籍協会、1928年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
公職 | ||
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先代 山尾庸三 |
北白川宮別当 1888年 - 1890年 |
次代 高崎正風 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 岩倉家(分家)初代 1884年 - 1890年 |
次代 岩倉具明 |