岩元栄次郎
岩元栄次郎 いわもと えいじろう | |
---|---|
| |
生年月日 | 1882年1月15日 |
出生地 |
日本 鹿児島県出水郡出水向江平良馬場 (現・鹿児島県出水市) |
没年月日 | 1946年1月14日(63歳没) |
出身校 | 早稲田大学専門部政治経済科卒業 |
前職 | 会社経営 |
所属政党 |
(立憲政友会→) 翼賛議員同盟 |
選挙区 | 鹿児島県第2選挙区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1936年 - 1942年4月29日 |
当選回数 | 3回 |
出水町会議員 | |
出水郡会議員 |
岩元 栄次郎(旧字体:岩元 榮次󠄁郞、いわもと えいじろう、1882年(明治15年)1月15日[1] - 1946年(昭和21年)1月14日[2])は、大正から昭和期の日本の実業家・政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]鹿児島県[2][3]出水郡出水向江平良馬場[4](出水町[5]を経て現出水市[6])で、旧薩摩藩士・岩元平次郎の長男[注釈 1]として生まれた[7]。1908年(明治41年)早稲田大学専門部政治経済科を卒業した[2][3][5][6][8]。1927年(昭和2年)家督を相続した[7]。
ジャパンタイムズ社明治堂記者となる[2][3][5][6][8]。その後、帰郷して木炭商、農業を営む[2][5][6][8]。また私塾「山北学館」を設立して1917年(大正6年)の廃館まで青年教育に尽力した[2][5][6]。
実業界では、鹿児島県木炭改良組合連合会副会長、出水肥料取締役、南九州窯業取締役社長、鹿児島県観光協会評議員などを務めた[2][3][5][6][7][8]。
政界では、出水郡会議員、出水町会議員、鹿児島県会議員(3期)、同参事会員、地方森林会議員、海外移住組合代議員、出水消防組頭などに在任した[2][3][4][5][6]。
1936年(昭和11年)2月、第19回衆議院議員総選挙で鹿児島県第2区から立憲政友会所属で出馬して初当選し[3][6][7][9]、1937年(昭和12年)4月の第20回総選挙(鹿児島県第2区、立憲政友会公認)でも再選され[6][7][10]、その後、翼賛議員同盟に所属し衆議院議員に連続2期在任した[2][5][6]。県立出水中学校・同女学校(現鹿児島県立出水高等学校)の開設、出水アルコール工場(現日本アルコール産業出水工場)の誘致になどに尽力した[4]。
1946年1月、病のため死去した[6]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』鹿児島2頁では二男。
出典
[編集]- ^ 衆議院『第六十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1936年、32頁。
- ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』82頁。
- ^ a b c d e f 『粛正選挙代議士名鑑』229頁。
- ^ a b c 『鹿児島県姓氏家系大辞典』337頁。
- ^ a b c d e f g h 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』61-62頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 『郷土人系 上』159頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第12版 上』コ52頁。
- ^ a b c d 『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』鹿児島2頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第19回』599頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第20回』587頁。
参考文献
[編集]- 『粛正選挙代議士名鑑』選挙粛正中央会編纂部、1936年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第19回』衆議院事務局.、1936年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第20回』衆議院事務局、1937年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社ほか、1938年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1939年。
- 南日本新聞社編『郷土人系 上』春苑堂書店、1969年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 鹿児島県姓氏家系大辞典編纂委員会編著『鹿児島県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典46、角川書店、1994年。