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島本久五郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島本 久五郎
生誕 1895年4月1日
日本の旗 日本和歌山県
死没 (1974-09-15) 1974年9月15日(79歳没)
所属組織 日本海軍
軍歴 1917年(大正6年) - 1947年(昭和22年)
最終階級 海軍少将
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島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年)4月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日[1])は、日本海軍軍人、最終階級は海軍少将

経歴

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和歌山県出身[1]。島本熊太郎の三男として生れる[1]和歌山中学校[1]を経て、1916年11月、海軍兵学校44期)を95名中6番の席次で卒業[2]し、翌年12月に海軍少尉任官[1]海軍潜水学校普通科を卒業し、「第28潜水艦」(呂号第五十四潜水艦)に乗り組む[1]海軍水雷学校高等科で学び、アメリカ駐在、「呂号第五十三潜水艦」艦長、第7潜水戦隊参謀、「呂号第二十七潜水艦」艦長などを経て[1]1930年11月、海軍大学校(甲種28期[3])を卒業。

伊号第六十潜水艦」艦長、第1潜水戦隊参謀、軍令部員(第3部第5課)、練習艦隊参謀、第2艦隊参謀、海大教官、支那方面艦隊先任参謀を歴任した[1]。2度めの海大教官在職中、山本五十六連合艦隊司令長官に就任し、海軍省人事局は島本をその先任参謀に補職する方針であったが、結局同期の黒島亀人が補職された[4]。人事局第1課長在職中は石川信吾軍務局第2課長に発令することに反対したが、受け入れられなかった[5]。のちに山本が「海軍は石川を甘やかしすぎた」と語った相手が島本である[5]太平洋戦争開戦時は、第7潜水隊司令であった[1]

標的艦「摂津」艦長、第6艦隊参謀長などを経て、1943年5月に海軍少将に進級[1]海上護衛総隊参謀長、同参謀副長、第3南遣艦隊参謀長、兼南西方面艦隊参謀副長を勤め、1947年1月、予備役に編入された[1]。同年11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸海軍総合事典』「主要陸海軍人の履歴 島本久五郎」
  2. ^ 『海軍兵学校沿革』(原書房)、「大正五年十一月二十二日」
  3. ^ 『陸海軍将官人事総覧 海軍編』芙蓉書房、195頁。
  4. ^ 『海軍参謀』152-153頁
  5. ^ a b 『四人の軍令部総長』82頁
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」69頁。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
  • 吉田俊雄『海軍参謀』文春文庫
  • 吉田俊雄『四人の軍令部総長』文春文庫