島本久五郎
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島本 久五郎 | |
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生誕 |
1895年4月1日 日本、和歌山県 |
死没 | 1974年9月15日(79歳没) |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1917年(大正6年) - 1947年(昭和22年) |
最終階級 | 海軍少将 |
島本 久五郎(しまもと きゅうごろう、1895年(明治28年)4月1日 - 1973年(昭和48年)9月15日[1])は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍少将。
経歴
[編集]和歌山県出身[1]。島本熊太郎の三男として生れる[1]。和歌山中学校[1]を経て、1916年11月、海軍兵学校(44期)を95名中6番の席次で卒業[2]し、翌年12月に海軍少尉任官[1]。海軍潜水学校普通科を卒業し、「第28潜水艦」(呂号第五十四潜水艦)に乗り組む[1]。海軍水雷学校高等科で学び、アメリカ駐在、「呂号第五十三潜水艦」艦長、第7潜水戦隊参謀、「呂号第二十七潜水艦」艦長などを経て[1]、1930年11月、海軍大学校(甲種28期[3])を卒業。
「伊号第六十潜水艦」艦長、第1潜水戦隊参謀、軍令部員(第3部第5課)、練習艦隊参謀、第2艦隊参謀、海大教官、支那方面艦隊先任参謀を歴任した[1]。2度めの海大教官在職中、山本五十六が連合艦隊司令長官に就任し、海軍省人事局は島本をその先任参謀に補職する方針であったが、結局同期の黒島亀人が補職された[4]。人事局第1課長在職中は石川信吾を軍務局第2課長に発令することに反対したが、受け入れられなかった[5]。のちに山本が「海軍は石川を甘やかしすぎた」と語った相手が島本である[5]。太平洋戦争開戦時は、第7潜水隊司令であった[1]。
標的艦「摂津」艦長、第6艦隊参謀長などを経て、1943年5月に海軍少将に進級[1]。海上護衛総隊参謀長、同参謀副長、第3南遣艦隊参謀長、兼南西方面艦隊参謀副長を勤め、1947年1月、予備役に編入された[1]。同年11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。