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島村鼎甫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
島村 鼎甫
生誕 津下亨二
天保元年(1830年
備前国上道郡沼村(岡山県岡山市東区沼)
死没 明治14年(1881年2月25日
東京大学医学部附属病院
死因 面疔
国籍 日本の旗 日本
医学関連経歴
所属 徳島藩医学所医学校開成学校

島村 鼎甫(しまむら ていほ、天保元年(1830年) - 明治14年(1881年2月25日)は幕末明治の医学者。幼名は亨二。通称は貞蔵、鵬輔。字は鉉仲。号は柴軒。備前国出身。大坂緒方洪庵に学び、江戸種痘所に入り、徳島藩侍医、医学所教授、医学校開成学校二等教授、文部中教授。

生涯

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天保元年(1830年)、備前国上道郡沼村(岡山県岡山市東区沼)に五代津下古庵の次男として生まれた[1]。天保4年(1833年)12月岡山城下上之町柴屋志げ養子となった[2]

姫路藩仁寿山黌大坂後藤松陰儒学を学び、曽根崎に寄宿、西周と同宿した[1]嘉永5年(1852年)緒方洪庵蘭学を学び、1年で全科を修了し、京都赤沢寛輔に塾頭として招かれた[2]。留学前から一定の蘭学知識があったと思われ、隣町下之町にいた石井宗謙楠本イネとの関係が考えられる[1]

嘉永6年(1853年)江戸に出て、種痘所伊東玄朴に学んだ[1]安政元(1854年)徳島藩侍医[2]文久2年(1862年)緒方洪庵の医学所頭取就任に伴い、教授に推挙された[1]明治元年(1868年)12月10日医学校開成学校二等教授、明治4年(1871年)文部中教授[1]麻布区広尾町33番地に3000坪の屋敷を構えたが、明治12年(1879年)頃脳卒中で半身不随、健忘となり、屋敷を矢野二郎に売却し、芝区愛宕下に移った[1]面疔を発症して東京大学医学部附属病院に入院し[1]、明治14年(1881年)2月25日死去、17日谷中天王寺に葬られた。位牌は現在京都西翁院に存する[1]

訳書

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『撤兵演式』
王立陸空軍士官学校オランダ語版 "Voorschrift op het tirailleuren"を訳し、安政4年(1857年)出版したもの[1]
『扶氏診則』
長崎留学中の村田蔵六から得たクリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント "Enchiridion medicum; oder Anleitung zur medizinischen Praxis."上巻総論部を嘉永7年(1854年)6月訳したもの。山本致美に原稿を売却し、安政5年(1858年)『扶氏診則』として出版された[3][4]
『創痍新説』
サミュエル・D・グロス英語版 "A system of surgery : pathological, diagnostic, therapeutic, and operative"オランダ語版の重訳。原著の第10章Wounds and contusionsを訳したもので、後に田代一徳石黒忠悳等により各所が訳された[1]戊辰戦争で広く実用された[1]
『生理発蒙』
Douwe Lubach "Eerste grondbeginselen der Natuurkunde van den Mensch"翻訳[1]
『日講紀聞』
ウィリアム・ウィリスアントニウス・ボードウィンの講義録。司馬凌海口訳、石黒忠悳筆記で、鼎甫は校正、整理、印刷を担当したと思われる[5]

家族

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 津下健哉「島村鼎甫の業績と記録」『日本医学雑誌』第41巻、1995年
  2. ^ a b c d e 内藤二郎「津下精斎兄弟」『駒大経営研究』第4巻第1号、1972年 p.26-32
  3. ^ 津下健哉「『扶氏診断』と島村鼎甫訳の『扶氏診則』(上)」『日本医事新報』第3744号、1996年1月
  4. ^ 津下健哉「『扶氏診断』と島村鼎甫訳の『扶氏診則』(下)」『日本医事新報』第3745号、1996年2月
  5. ^ 「島村鼎甫とウイリス、およびボードウインの『日講紀聞』―明治初年の医学講義録―」『広島医学』第52巻第2号(通号577号)、1999年2月
  6. ^ 森本武利、奥村美都子、上野頼昭「京都府立医科大学雑誌の歩み」『京都府立医科大学雑誌』第100巻第10号、1991年10月 p.952