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崔劼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

崔 劼(さい かつ、生没年不詳)は、北魏末から北斉にかけての官僚は彦玄[1][2][3]本貫清河郡[1][2][4]

経歴

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北魏の太保崔光の子として生まれた。北魏の末年、開府行参軍から尚書儀曹郎・秘書丞を経て、起居注を修撰し、中書侍郎となった。東魏興和3年(541年)、通直散騎常侍を兼ね、への使者に立った。天保元年(550年)、北斉が建国されると、禅譲発議の功績により、給事黄門侍郎に任ぜられ、国子祭酒を加えられ、内省に宿直し、機密をつかさどった。清廉謹直な態度で文宣帝に重用された。南青州刺史に任ぜられて、治績を挙げた。皇建年間、秘書監・斉州大中正となり、鴻臚卿に転じた。并省度支尚書となり、京省度支尚書に転じた。まもなく五兵尚書に転じ、監国史をつとめた。河清4年(565年)、武成帝後主に帝位を譲ろうとしたとき、崔劼は意にさからって諫めたため、南兗州刺史として出された。天統元年(同年)、後主が立つと召還され、再び度支尚書・儀同三司となり、文登県を食邑とした。まもなく中書令に任ぜられ、開府儀同三司の位を加えられ、待詔文林館となり、新書の監修をつとめた。66歳で病没した。斉州刺史・尚書右僕射の位を追贈され、を文貞といった[5][2][6]

子に崔拱・崔撝があった。和士開が専権を握ったとき、ふたりはそろって外任として出されたが、崔劼はふたりを呼び戻そうとしなかった。崔拱は天統年間に任城王高湝の下で丞相諮議参軍・管記室をつとめた。崔撝は揚州録事参軍となった[7][8][9]

弟の崔廓之は、臨水県令から琅邪王高儼の下で大司馬西閤祭酒をつとめ、領軍功曹参軍に転じた。武平年間に死去した[7][8][9]

脚注

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  1. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 535.
  2. ^ a b c 北斉書 1972, p. 558.
  3. ^ 北史 1974, p. 1623.
  4. ^ 北史 1974, p. 1615.
  5. ^ 氣賀澤 2021, pp. 535–536.
  6. ^ 北史 1974, pp. 1623–1624.
  7. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 536.
  8. ^ a b 北斉書 1972, pp. 558–559.
  9. ^ a b 北史 1974, p. 1624.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4