尾上華丈
おのえ かじょう 尾上 華丈 | |||||
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本名 | 嶋田 喜一郎(しまだ きいちろう) | ||||
別名義 | 市川 百々太郎(いちかわ ももたろう) | ||||
生年月日 | 1898年8月31日 | ||||
没年月日 | 1969年3月2日(70歳没) | ||||
出生地 | 日本 兵庫県神戸市 | ||||
職業 | 俳優、元歌舞伎役者、元子役 | ||||
ジャンル | 歌舞伎、劇映画(時代劇、剣戟映画、サイレント映画、トーキー) | ||||
活動期間 | 1906年 - 1969年 | ||||
配偶者 | 有 | ||||
著名な家族 |
片岡松燕(実兄) 尾上松葉(実弟) 片岡栄二郎(子息) 島田秀雄(子息) | ||||
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尾上 華丈(おのえ かじょう、1898年8月31日 - 1969年3月2日)は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元子役である。本名嶋田 喜一郎(しまだ きいちろう)、旧芸名市川 百々太郎(いちかわ ももたろう)[1]。徹底した京都の時代劇のバイプレイヤーであり、30歳のころには主役も張った。
来歴・人物
[編集]1898年(明治31年)8月31日、舞台の床山を職とする父のもと神戸市に生まれる。3歳上の兄は俳優の片岡松燕である[1]。早くから舞台俳優になり、「市川百々太郎」名義で舞台に立つ。
市川市蔵 (4代目)の一座を経て[1]、1920年(大正9年)、片岡我童一座にいた兄とともに[2]日活京都撮影所に入社する。翌1921年(大正10年)の牧野省三監督渾身の企画『実録忠臣蔵』に兄の松燕が大石主税役で出演、華丈も「市川百々太郎」名義で出演している[1]。1924年(大正13年)から「尾上華丈」を名乗る。
基本的には達者なバイプレイヤーであり、日活京都に在籍し続けた。吉本清濤監督の『殺陣往来』(1928年)、渡辺邦男監督の『当り籤以上』(1929年)では主役を張った[1]。1932年(昭和7年)から1937年(昭和12年)までは片岡千恵蔵の片岡千恵蔵プロダクションを脇で支えた。同年千恵蔵の日活入りとともに日活に復帰、1942年(昭和17年)1月の戦時統合による大映への合併後も大映京都撮影所に残った。
戦後は1949年(昭和24年)の東横映画設立とともに同社に転じ、1952年(昭和26年)の3社合併による東映の設立にあたっても、東映京都撮影所に参加、最晩年まで生涯役者を貫いた。刺青を描く特技があり、おなじ京都の大映京都撮影所作品の『弁天小僧』(1958年)で市川雷蔵の背中に美しい刺青を描いた[1]。
1969年(昭和44年)3月2日、心臓病のため死去。70歳没。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 『実録忠臣蔵』(1921年、日活京都撮影所、監督・脚本:牧野省三)「市川百々太郎」名義
- 『忠次旅日記』(1928年、監督:伊藤大輔)
- 『高山彦九郎』(1928年、東亜キネマ京都撮影所、監督:後藤岱山) - 薄馬鹿 (「市川百々太郎」名義)
- 『維新の京洛 竜の巻 虎の巻』(1928年、日活太秦撮影所、監督:池田富保) - 土方歳三
- 『王政復古 担龍篇 / 双虎篇』(1939年、監督・主演:片岡千恵蔵) - 沖田総司
- 『鴛鴦歌合戦』(1939年、監督:マキノ正博) - 道具屋六兵衛
- 『成吉思汗』(1943年、大映京都撮影所、監督:松田定次・牛原虚彦) - ヂェルメ
- 『獄門島』(1949年、監督:松田定次) - 辻井刑事
- 『阿波おどり 鳴門の海賊』(1957年、監督:マキノ雅弘) - 阿波屋徳兵衛
- 『風雲児 織田信長』(1959年、監督:河野寿一)
- 『壮烈新選組 幕末の動乱』(1960年、監督:佐々木康)
- 『十三人の刺客』(1963年、監督:工藤栄一)
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 市川百々太郎 - 日本映画データベース
- 尾上華丈 - 日本映画データベース
- Kajo Onoe - IMDb